アルゼンチン独立革命200周年記念日に思う
1810年5月25日、ブエノスアイレスのカビルド(市会。植民地人の代議員で構成)は、シスネロス副王の罷免と自治(政府)評議会(フンタ)設立を決議した(私のホームページ「ラ米の独立革命」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI2.htmご参照)。五月革命とも呼ばれる。この日はアルゼンチンの「祖国政府発足の日(Día del Primer Gobierno Patrio。邦訳は一般的に革命記念日)」として国民祝日になっている(やはり国民祝日の独立記念日は、独立宣言を発した1816年7月9日)。前週末より様々な催しが行われ、この日絶頂に達した。
この記念日に、フェルナンデス大統領はルラ(ブラジル)、チャベス(ベネズエラ)、ピニェラ(チリ)、コレア(エクアドル)、モラレス(ボリビア)、ムヒカ(ウルグアイ)、ルゴ(パラグアイ)各大統領、及びセラヤ・ホンジュラス前大統領を招き、官邸内に設営した「ラテンアメリカの愛国者たち回廊」オープニング式典を主催した。併せて、マルビナス領有権を確認することも忘れていない。4月19日にはチャベス、コレア、モラレス各大統領とベネズエラの二百周年記念式典を共にしている。これでいずれの二百周年記念式典に出ないのは、ウリベ・コロンビア大統領と、ガルシア・ペルー大統領だけ、となった。奇しくも、南米でホンジュラスのロボ政権を認めているのは、この2ヵ国だけだ。この日、ロボ大統領がペルー訪問している。7月20日(コロンビアの二百周年記念日)と9月18日(チリ。同)ではどうなろうか。
アルゼンチン大統領官邸は有名な五月広場(この日に因んで命名された)に面している。反対側にはそのカビルドの建物が当時のまま残っているが、式典が終わると、彼女自身を含む8人の大統領が官邸から広場に現れ、大勢の群衆の中をカビルドまで歩き、俳優や音楽家、軍、などの「二百周年行進」を見物した、とメディアは伝えている。歌やダンスやショー、花火などで、町中が大変な賑わいようだったようだ。
ブエノスアイレスにはミラノのスカラ座、パリのオペラ座と共に世界三大劇場の一つとして知られるコロン劇場がある。修復工事のため4年ほど閉鎖されていたが、二百周年に合わせて再開された。ここではマクリ市長主催の再開式典が催されたが、大統領は招かれなかったそうだ。夫が南米諸国連合(UNASUR)事務総長に就任し、何よりラテンアメリカ統合の推進を目指す大統領で、自国の記念日に他国の大統領を一同に会させるような人だが、お膝元では首都の市長が政敵、一般的に野党勢力は何かあれば対立を演じ、アルゼンチンメディアは軒並み政府攻撃を続ける。
五月革命百周年は1910年だ。それまでの100年間の半分は中央と地方の軋轢により、はっきり言って国家としては成り立っていなかった。南米ではペルーに続き南米1853年に、今なお続く憲法を制定しながら、統合国家として初めての大統領にミトレ(在任1862~68年)が就任したのは、1862年のことだ。彼は、パラグアイを破局に追い込んだ「パラグアイ戦争」の三国同盟軍総司令官にもなっている。それからの半世紀は、欧化の時代、と言えようか。彼を継いだサルミエント(在任1868~74年)は、国民識字率向上に熱心で「教育の父」と呼ばれるが、カウディーリョ文化とも言うべき荒々しい国民気質を厭い、文化面のみならず人種面でも欧化が必要、と考えた。1876年、彼の後任、アベジャネーダ大統領(在任1874-80)により「移民促進法」が制定され、1879、80年のロカ将軍による先住民追放作戦、「荒野の征服」が行われて肥沃なパンパから先住民がいなくなったら、ヨーロッパからの移民が殺到する。これに連れてパンパの中を鉄道網が延伸を続ける。1910年までに、人種的にはすっかり欧化が完成していた。また、作戦を指揮した同将軍は大統領になった(1880-86年、1898-1904年)。
欧化の時代の1889年9月に結成された「青年市民同盟」が翌90年7月に武力蜂起した。当時はロカ元将軍の政治勢力(全国自治党)が国政を担っていたが、行政府が選挙を管理することで、独裁を可能とする選挙制度変革を求め、実力行使に訴えたものだ。勿論短期で制圧されるが、当時の大統領を辞任に追い込んだ。1891年6月、その一派が「急進市民同盟(急進党)」を結成、93年にも同じ理由で、武力蜂起した。イリゴージェンが指導者になって暫く過激行動は途絶えたが、1905年の蜂起は全国に広がり、失敗こそしても最終的には1912年後の選挙法改正に繋がった。今では当たり前の秘密投票導入、選挙管理を行政府から司法に移管が漸く実現した。つまり、百周年では民主主義社会が築かれていなかった、とも言える。ベネズエラもコロンビアもメキシコもチリも、夫々に事情の違いはあるが、どちらかと言えばそうだった。
次の100年間はどうだったのだろうか。イリゴージェン政権(在任1916-22、28-30)を含め急進党時代を経て、軍政の強権時代を辿り、普通選挙法が完全に実施され軍も文民統制下に置かれたのは、1983年のことだ。民主国家と言える歴史は、本当に短い。急進党とペロン党の(その分派を含め)二大政党時代は一見続くが、近年はマクリ市長の「共和主義の答(Respuesta Republicana。PRO)」が台頭している。イデオロギーは市場原理主義経済を信奉する体質を考慮すれば、右派勢力、ということになろう。民主主義体制の中での政争は、止められまい。
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