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2010年4月27日 (火)

モックス候補の台頭-コロンビア

このブログで、一月前に314日に行われたコロンビア議会選挙について述べた。最終結果として、ウリベ与党を構成する「国民社会連合党(la U)、以下連合党」、保守党及び急進変革党は議席数で上、下院とも過半数を獲得している。その際、支持率の高い二人の大統領候補を挙げ、第一次投票で連合党公認のサントス前国防相(58歳)と、現在の連立相手である保守党公認のサニン前駐英大使(60歳)とが一、二位を得票する、という最も考えられる結果が出た場合、決選投票ではどうなるのか問題提起した。今、状況は大きく変わった。サントス候補はこれまで同様に支持率第一位だが、小党の「緑の党」候補で、且つウリベ大統領と同年齢のモックス元ボゴタ市長(58歳)が台頭、彼に肉薄する第二位に上がって来た。422日の世論調査では、決選投票に進んだ場合、モックス氏に投票する、と言う人が50%内外を占めている。

モックス氏は、ボゴタ市長を二度も務め、在任中の施策が結構人気を博した。1998年には大統領選で独立候補としてサニン氏が初めて出馬した時、その副大統領候補だった。彼女がいきなり26%の得票を得た選挙である。結果的に決選投票の前で敗退した。つまり副大統領候補としてのモックス氏も同様、敗退した。今回はサニン氏の三回目の挑戦を阻む。彼の緑の党自体、彼や、市長として彼の前任者と後任者の二人らが昨年10月に結成したばかりで、3月議会選で獲得できたのは下院(全議席数162)で3議席、上院(同、102)5議席に過ぎない。片やサントス候補の連合党は議会第一党、単独で夫々4728議席も得た。世論調査での支持率は、党勢とは切り離して考えても良いのかも知れぬが、それにしても彼への支持率の急伸ぶりは凄い。

政見は、よく分からない。緑の党自体、大都市首長経験者が結党したもので国政上の施策が見え難い。党名について、環境保護のために戦う党であり、そのために社会から違法性を根絶すべく政策を実行する、として、やり玉に挙げるのがコカ栽培で既存緑地が崩壊されていることだ。二人の元ボゴタ市長の政党出自は、夫々が自由党及び「民主代替の極」(PDA)だそうで、自由党よりも左傾化している、と見ることはできよう。だが、FARCに対しては、人質解放に拘束中のFARCメンバーの釈放を交換条件とする交渉には応じられない、と、ウリベ大統領と同じ姿勢ともとれる。人質解放問題にはFARCとの交渉窓口に自由党左派の議員が立ち、尽力している。現在冷却している対ベネズエラのチャベス大統領については、ベネズエラ人が選んだ大統領であり、敬意を以て接する、と言うが、関係修復への具体的な意思表明は見当たらない。サントスが大統領になれば戦争だ(チャベス大統領)やサントスは25名を殺害したコロンビア軍越境作戦の責任者、として引き渡しを要求すべし(エクアドル法廷)とか、両隣国の態度が騒々しく響く。敵失をどう見ているのかも分からない。米軍に対する基地供与問題への発言もあまり聞かない。

ウリベ大統領の高支持率は、政権末期にある現時点でも60%を超える。3月の議会選で政権与党が勝ったのは、このお陰だともいえよう。彼の政権下で、この国の代名詞が暴力、と揶揄され続けてきた中で、歴代の政権を揺すぶり続けた暴力が確実に減少したことにある。治安は大きく改善した。ラテンアメリカでは禁じ手となる米軍に対する基地供与も、彼の政権だから可能だったのではなかろうか。麻薬は、コロンビア国民も嫌悪する。麻薬との戦いには「プランコロンビア」が重要な役割を果たしている、米軍の協力は必要、麻薬犯の対米引き渡しも必要、という説得は、彼の大統領としての実績があって、初めて可能だった気がする。しかし2002年、自由党を離れ独立候補として初めて大統領に挑戦した時に、その自由党の公認候補を抑え、いきなり過半数の得票で、第一回目の選挙で当選した。父親をFARCに人質にされ殺害された人、テロには妥協しない人、仕事熱心な人、とのイメージが有権者の心を掴んだのだろう。コロンビア大統領は、党人であれ官僚出身であれ、自由党と保守党の二大政党から出て来た。その殻を破った功績も大きい。だが実は、自由党の政敵たる保守党の支援を受けた。

モックス氏はコロンビア国立大教授から43歳でボゴタ市長に転出した人だ。29歳でメデジン市長になり33歳で自由党の上院議員として国政に出たウリベ大統領とは、まるで違う。1998年、サニン氏の副大統領候補として出馬して敗退した後、一旦大学に戻り、2001年から二度目のボゴタ市長を務め、2006年に大統領選に挑戦したが、僅か1%台の得票だった。いわゆるパラポリティック・スキャンダルが政権与党のみならず自由党議員にも現れたことで、国民の深層部分で既存政治勢力への幻滅が広がっていることが、彼への期待を高めた、とも思える。最近、自らパーキンス病に罹患していることを公表した。彼の支持率が急伸したのは、これ以降だ。幸い生命は、向こう十数年は大丈夫だし、精神面でも問題無いない、とのことだが、大統領職は激務である。これに挑戦する彼の姿を、一般国民が意気に感じたこともあろう。だが政権運営には現実的な対応は不可欠だ。サントス候補が勝てば、これまで同様の連立政権が構築でき、立法府で過半数の議席を有し、政権運営は安定する。モックス候補も勝てばどこかと連立せねばならない。連立を組んでも、現与党全てが下野すれば、立法府での議席では過半数が取れない。

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2010年4月24日 (土)

ベネズエラ独立革命200周年に集まった大統領たち

419日、カラカスにALBA加盟国(旧スペイン、ポルトガル領19ヵ国では、ベネズエラ、キューバ、ボリビア、ニカラグア及びエクアドル5ヵ国。他にアンティグア、ドミニカ、サンビセンテ・グラナディナのカリブ島嶼国)首脳とフェルナンデス・アルゼンチン、フェルナンデス・レイナ・ドミニカ共和国両大統領が集まった。このことで、一寸書いておきたい。

1810419日、カラカスのカビルド(市会)が、スペイン本国のセビリャ自治評議会政府(ほどなくカディスに移動)によって軍務総監に指名されたばかりのエンパランを罷免し、自らの行政最高評議会を立ち上げた。カビルドというのは植民地人の議会のことを指すが、それまで植民地社会に根を下ろした有力者たちがレヒドル(regidor。参事と邦訳されている)と呼ばれる議員となって様々な問題を協議し合う場だった。司法行政の権限はアウディエンシア(audiencia。聴訴院と邦訳される)という本国による植民地統治機関にあり、国王勅任の軍務総監が全権を担っていた。つまりカビルドは国政に関わる権限は殆ど持たされていなかった。それが一人の軍務総監の追放によって行政権を手中に収める決議をした。これは植民地もセビリャ同様、フンタ(junta)と呼ばれる自治評議会を立ち上げる権利を行使する、というもので、独立宣言ではない。だから、ベネズエラはこの日を独立記念日とはしていない。だが、ラテンアメリカの独立革命史上、最重要年の一つとして記憶されている。フェルナンデス大統領はベネズエラ議会で演説し、200周年万歳、と締めくくったそうだ。525日はアルゼンチンも同様の記念日が到来する。同様の集まりはあるのだろうか。

200周年記念日では、2009810日、南米諸国連合(UNASUR)サミットがキトで開催された。同市の市民がアウディエンシア長官を追放し自治評議会を立ち上げた日で、エクアドルではこの日を独立記念日としている。ベネズエラにとっての419日よりも重要な日だと言えよう。ちょうどコレア大統領がUNASURの年次議長を務める年だったことがあろう。また、同年1014日にはラパスでALBAサミットが開かれている。やはり200年前の同地で、市民による自治評議会を立ち上げる事件が起きていた。キトもラパスも植民地当局によって解散させられ、エクアドルは18225月に、ボリビアは18253月に、ボリーバルにより解放された。

カラカスの集まりは「サミット」になるのだろうか。この機会にチャベス、コレア両大統領が、530日のコロンビア大統領選にウリベ政権与党「国民社会連合党(la U)」候補として出馬したサントス前国防相への懸念を表明した。20083月に対コロンビア断交に踏み切ったエクアドルは、昨年末には代表部の相互設置で復交への第一歩を踏み出したが、今日に至るも正式な国交回復に至っていない。懸念は、断交の基になったエクアドル国境地帯にあったFARC拠点に対するコロンビア軍の越境作戦が、当時のサントス国防相の責任に帰する、との考え方にあり、また、ウリベ現大統領の対外政策の継承を表明するサントス候補に対するチャベス大統領の反発がある。サントス候補は、逆に、いずれも内政への干渉がましい言動、と批判する。

オルテガ大統領は、2011年末の大統領選への連続出馬の機会を求め、法的整備を進めようとしている。だが議会はこの3ヵ月間、政治問題に関わる法案審議を拒否し続けて来た。オルテガ支持者による激しい対議会抗議が奏功したのだろうか、漸く審議に入ったようだ。聊か国内情勢が気にかかる状況にあり、ちょっと眼が離せない。その中でカラカスに来た。ALBAはホンジュラスのロボ政権を承認しない立場だが、中米諸国はEUとの「連合協定」を推進する必要に迫られている。その前提がロボ・ホンジュラス政権承認だ。ニカラグアも無視し続ける訳にいかず、4月に入って両国大統領は対話を開始した。既に承認したかも知れない。これをALBAの首脳陣の了解を取り付けたい。

カストロ議長のキューバは、サパタ服役囚が刑務所の待遇に抗議し80日間のハンストを実行し2月央に衰弱死した。これに抗議をする形でジャーナリストのファリーナ氏がハンストに入り、現在収監中の26名の政治犯解放を訴え、現在は入院して点滴で生命をつないでいる。彼の場合、以前にもインターネット検閲に抗議するなどハンストを繰り返してきたために、国際的知名度が高く、人権問題に過敏な国際社会のキューバの体制に対する反発を強め、人権団体のみならずメディア界、EU、及び、当然だが米国から、轟々たる非難が寄せられた。その中でのカラカス来訪だった。ファリーナ氏のハンストは米国やメディアに唆された不満分子に利用されたもの、というのが政権側の主張だ。また最近、クリントン米国務長官が、カストロ兄弟は国民の支持を繋ぎとめるため米国と敵対関係にある現状を維持する方が得策、と考えている、と批判した。これには本末転倒、と反撃している。ALBA加盟国は、キューバ側の主張を一致して支持できる首脳が集まる。

モラレス大統領はこの後帰国し、自然保護を叫ぶ団体など世界中から2万人以上の参加者による国際集会を主催した。「気候変動と母なる大地の権利に関わる人民の国際会議」と名付け、ボリビアはここ1年間で1,000万本の植樹を行い、また母なる大地の権利を保護する省を設立すると宣言した。これにはチャベス大統領も出席している。2020年までに世界の主要国は二酸化炭素の排出量を半減させること、などを、年末にメキシコのカンクンで開かれるCOP16で提起する、とのことだ。

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2010年4月11日 (日)

10月のブラジル大統領選:二人の強力候補

ブラジルは、大統領、議会選挙を一度に行う、ラテンアメリカでは一般的な総選挙方式を採る。加えて、26州の州知事とブラジリア連邦直轄区の知事も同時に選出する。議会では定数513人の下院議員(任期4年)全員、同81人の上院議員(同8年)はその3分の1乃至3分の22010年は後者)が対象だ。2010年は103日に行われる。

411日、最大野党のブラジル社会民主党(PSDB)はセラ前サンパウロ州知事(3月末退任)を正式に大統領候補に指名した。彼にとっては、8年前に続く、68歳にして二度目の挑戦だ。与党候補は労働者党(PT)のロウセフ前大統領府長官(同じく3月末退任)、62歳が決まっている。末期にあってなお80%を超えると言われる大変に高い支持率を誇るルラ政権からの与党候補だからと言って、彼の後任になれるわけではない、と言うのは、チリと同じで、世論調査ではセラがロウセフを支持率で上回ってきたが、このところ肉薄傾向にある。49日に初めてブラジルを訪問したチリのピニェラ新大統領は、ルラ大統領の他、ロウセフとセラ両候補と個別に会談した。

ブラジルでは今日のような強力な行政権限を持つ大統領が直接民選され、且つ任期を全うできたのは、ルラの前にはドゥトラ(在任1946-51年)、クビチェク(同56-61年)及びカルドーゾ(95-2003年)の3人しかいない。85年の民政移管後、死去、或いは弾劾で、二人続いて中途で辞めている。そして94年選挙でカルドーゾ候補が選出され、憲法修正で任期を4年に短縮する代わりに連続再選が可能となった。政界地図を見ると、労働者党(PT)、ブラジル民主運動党(PMDB)、PSDB、及びその友党ともいうべき民主党(DEM)が、言うなればブラジル四大政党で、2006年総選挙での得票率は合わせて54%だった。残りの46%は、20近い他の政党で分け合っている。2010年選挙でセラを出すPSDBは、民政移管後の政権与党にあったPMDBを飛び出たカルドーゾらのグループにより結成された。だが彼の政権は、PMDBと連立を組んだ。左派PTのルラ候補が政権に就くことを恐れたためだろう。

PT自体は、ルラ政権を誕生させ、再選させた20022006年両選挙で、得票率では一位だったが、それでも夫々18%15%である。2002年選挙では、他で支持を得た政党は小党ばかりで、結局彼自身の国民的人気が政権獲得に繋がった。実際の政策も決して急進的なものではなく、中間層にも安心感を広げた。そして2006年にはPMDBと、議席数第5位の進歩党(PP)、同第6位の社会党(PSBの支持まで取り付けた。PPは歴史的に軍政与党の流れを引く中道右派、PSBは中道左派との位置付けのようだ。経済も確実に成長している。国際舞台でも存在感が非常に高い政治家になってもきた。その彼が、ロウセフ長官を大統領候補に指名した。彼女は、当然、ルラ政治継続と、かつての新自由主義政策復帰への阻止を主張する。彼女は軍政時代に逮捕、収監された左派系活動家出身、という点で、チリのバチェレ前大統領を想起させる。釈放後は軍政期非合法活動無く、大学卒業後地方行政に従事、2002年からルラに抜擢され国政で閣僚を務めてきた人で、選挙で選ばれる、という経験は無い。現在議席数では議会第一党のPMDBは、8年前の選挙ではセラを支持したが、今回はPT候補と言うことで彼女の支持に回る。ルラ野党で議席数第七位の民主労働党(PDT)の支持も得た。だが、PSBはゴメス候補を出すし、PPはまだ態度を明らかにしていない。

PSDBは本来PMDBの左派グループが作った党だが、カルドーゾ時代の民営化推進ですっかり新自由主義経済政策の党、とのイメージが定着したようだ。そのセラ候補だが、学生運動指導者出身で軍政期に亡命経験を持っている。チリにピノチェト軍政前まで長く滞在した。民政移管直前の恩赦で帰国後はロウセフとは異なり、何度も選挙の洗礼を受けた。1984年より下院議員、上院議員、サンパウロ市長、州知事を歴任した。閣僚としてはカルドーゾ政権期に厚生相を経験している。8年前支持してくれたPMDBは失っても、8年前にルラ候補に起きた流れが、今度は彼に来ないとも限るまい。彼を支持する民主党は軍政与党内の批判勢力が創設したものだが、上記PP同様、中道右派の位置付けだ。もう一つ、小党の人民社会党(PPS)も彼の支持に回る。かつての共産党である。セラ候補は、正式指名の受諾演説で、ルラ政権が貿易拡大策を採らず、複雑で高コストの国内流通体制の変革に取り組まなかったことを、強く批判した。

ブラジルで最初、ラテンアメリカで6人目の女性大統領が誕生するか、チリに続いて脱左派政権が生まれるか、二人の支持率がどう変動していくか大変興味深い。

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2010年4月 3日 (土)

マルビナス領有権問題-アルゼンチン

42日、アルゼンチン南端の町、ウシュアイアで「マルビナス戦争の退役軍人と戦没者の28周年」式典が行われ、フェルナンデス大統領がマルビナス領有権回復を武力ではなく平和裏に実現する旨を強調した。同時に、イギリスが1965年の国連総会で決議された当事者間協議を実行せず、母国から1万4千㎞も離れた場所の主権を主張し続けるのは植民地支配に他ならない、と強調した。

1982年のマルビナス(フォークランド)戦争は、悪名高いアルゼンチン軍政によって惹き起こされた。悪名は、軍政には国内ペロン派(ペロニスタ)のモントネロスと呼ばれる勢力やその影響下にある労働組合活動家、及び左翼ゲリラとその支援者(その疑いがある人を含め)に対する弾圧で3万人とも言われる犠牲者を出したいわゆる「汚い戦争」による。巨額対外債務と経済苦境、及び国民生活を疲弊させた三桁インフレも、この軍政下のことだ。ガルティエリ軍政大統領の意図は、国民の不満をそらすために戦争に踏み切った、という人も多い。勝算はあった。

ウシュアイアから東へ400㎞。総人口が現在なお3千人にも満たないフォークランド。東西フォークランド両島プラス776小島群から成り、総面積は12千平方キロ、主要産業といえば羊毛、漁業、観光だ。1982当時の人口はこれよりも少なく、防衛隊員は英国海兵隊員を含めても、百人に満たない。事実、28年前にこの地に進発したアルゼンチン軍は、戦わずして征服した。国民は領土回復の歓びで熱狂した。更に、こんな遠隔地までイギリス軍がやってくることは考え難く、また米国が、自ら主導した1947年のリオ条約(第三国による加盟国攻撃は米州全体への攻撃、と規定)に縛られ、イギリスに睨みを利かせる、従って、対英戦争には踏み込まずに済ませる、との読みがあった。

サッチャー政権下のイギリスは、しかし5月にフォークランド奪回作戦に踏み切った。チリ以外のラテンアメリカ諸国はアルゼンチンを支持し、ペルーに至っては戦闘機を提供した。キューバまでもアルゼンチンを支持した。だが、参戦国は無い。米国が、これはアルゼンチン領土への攻撃ではない、との理由でイギリス支持に回ったことは最大の誤算だった。戦争は短期間で終了する。

フェルナンデス大統領は、この愚を繰り返さないことを述べたものだ。マルビナス領有権問題を再燃させたのはイギリスのデザイア石油による開発計画だ。222日の第二回ラテンアメリカ・カリブ首脳会議でも取り上げられた。アルゼンチンだけでなく米州の領域内にある天然資源の略奪、とまで言う人もいる。だが、ラテンアメリカ諸国はアルゼンチンの領有権を支持しながらも、言うだけで具体的な手は何も打てない。米国のクリントン国務長官も3月始めのアルゼンチン訪問の際、両国間協議が実現できるよう、イギリスに打診してみる、とは言ってくれたが、実は何もできないでいる。国連を含む国際機関には、もう一方の当事国、イギリスとの仲介の労をとる気配は無い。

第二次世界大戦後の194510月に国連が発足した。植民地支配の終焉と独立・自決(Decolonization)が叫ばれた時代だ。ペロンが大統領になり、この地の領有権を国連の場で訴えた。領有権主張は、彼が55年に追放されても続いた。1965年の国連決議だが、これにはフォークランド諸島住民の利益の重視、との前提があった。その島民には、なべてイギリス残留を望む声が強い。一向に埒があかない。彼の復帰が影響したかも知れぬが、1975年、ついに両国外交関係は断絶した。その流れの中に、マルビナス戦争がある。そして敗戦にも拘わらず、アルゼンチンの領有権主張は変わらない。一方で、イギリスが領有権問題の土俵に上らないのは、植民地主義的野心ではなく、優先させるべき島民の意向がある、との建前からだろう。

18331月、英国軍艦が土足で上がり込み、アルゼンチン国旗を引き下ろし、英国旗を掲揚して居座ったまま、と言うのは史実だ。だが1841年のイギリスによる入植開始後住み着いてきた島民が営々と築き上げてきた生活もある。何だか、日本の北方領土問題を見ているようだ。違うのは元の島民が追い払われた点だろう。マルビナス入植事業が開始されたのは1820年代のことで、アザラシ猟にいそしむガウチョが定住するようになるのは、1828年だ。イギリス軍艦来航時、島民はわずかだった。ガウチョの一部が反乱を起こし逮捕され、その後アルゼンチンに送還されたが、殆どは島に残った。

その後の入植者は当然ながら殆どがイギリス人である。現在の3千人、という人口に到達するのに170年かかった。島民には歴史がある。アルゼンチンはこれに何ら関わってこなかった。20世紀前半まで、イギリスはアルゼンチンにとって飛び抜けて重要な貿易相手国であり、投資引受国だった。マルビナス回復を理由に軍事作戦を展開して対英関係を悪化させるなど、有りえなかった。だから関わりようがなかった。だから島民は、イギリス残留は当然のこととしてきた。これでは先に進みようがなかろう。

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