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2009年12月26日 (土)

ラテンアメリカ:2009年を振り返る

ラテンアメリカの2009年、先ずは、米国のオバマ政権発足でChangeを感じさせるスタートだった。米国の亡命キューバ人による里帰りと家族送金の規制が撤廃された。ブッシュ政権時代には元々の規制を更に強化していたことを考えると、かなりの「前進」といえる。米国の対キューバ国交正常化に進むことは、オバマ政権も民主化を必要条件としている以上、当面は有り得ないが、米国人のキューバ渡航解禁は時間の問題だろう。6月末のホンジュラス政変では、米国も暫定政権に正統性無し、セラヤ大統領の復権が必要、との立場で臨み他米州諸国と足並みを揃えた。メキシコの麻薬密輸に就いては、組織に亘る米国の武器密輸取り締まりの必要性を、米政権として初めて認めた。何より反米のチャベス・ベネズエラ大統領が、対オバマ敵対的言動を強く抑えるようになった。

だが、コロンビア政府による米軍への自国基地使用権付与を巡り、オバマ個人攻撃は慎重に回避しながらも、チャベス大統領の対米強硬姿勢は復活した。ペルーを例外として、どの南米諸国もベネズエラへの理解を示す。彼とウリベ・コロンビア両大統領間の信頼関係は失われたまま、国境地帯では一触即発の状態だ。交戦に及ぶ可能性は低いと思うが、目が離せない。20108月にウリベ大統領の任期が到来するが、国民支持率が8割近いことから、連続三選を狙い出馬すれば当選は間違いなく、対ベネズエラ異常事態が、その分長期化する懸念はあろう。信頼回復に影響力を発揮できるのはルラ・ブラジル大統領あたりだろうが、彼の任期は余す1年のみだ。

ホンジュラス政変も深刻だ。セラヤ大統領は、本来の任期がひと月足らずになった現在もブラジル大使館に軟禁状態のまま支持者への行動を呼び掛ける態度を崩さない。米国とてセラヤ復権とミチェレッティ暫定大統領の退陣を求めてはいるが、選挙自体は公正に行われた、としてその結果を認めざるを得ない。だが、コスタリカ、ペルー、パナマ及びコスタリカを除くラテンアメリカのどの政権も、1129日の選挙結果を認めようとしない。セラヤ大統領が任期満了時点でロボ政権をどう評価し、米州域内亀裂が深まったまま隘路に落ち込んだ状態がどう変わるか、注目したい。

2009年、コレア・エクアドル及びモラレス・ボリビア両大統領は、狙った通りの二期連続当選を果たし、権力基盤を強めた。そして今は、オルテガ・ニカラグア大統領の二期連続への道が現実味を帯びてきた。全て、「米州ボリーバル同盟(ALBA)諸国で、政治的には左派政権に当たる。やはりALBA加盟国のホンジュラスのセラヤ大統領がクーデターで追放される元となったのは、連続再選はおろか再選自体を禁じる同国憲法を改定するための国民投票強行だが、この流れの一つだったことは間違いあるまい。彼のホンジュラス自由党は、敷いて言えば中道右派政党、と言える。だが彼自身はチャベス・ベネズエラ大統領の盟友を自負し、ALBA加盟を推進した。そのチャベス大統領は、2009年、三選を可能とする憲法改定をやってのけた。ALBA非加盟国で中道左派系とされるパラグアイとグァテマラも再選そのものが、エルサルバドル、ウルグアイ及びチリは連続再選が認められず、だが、いずれにもこの見直しへの動きは無い。

二十一世紀は、米国でブッシュ政権が発足するとラテンアメリカでは政権の左傾化が顕著となった。2009年、オバマ政権に代わっても、6月、エルサルバドルでフネス大統領が就任し、1980年代のゲリラとして内戦当事者だったFMLNが政権党となった。だが、従来の親米路線は自由主義経済政策と共に継続している。一方で9月、パナマでは右派連合のマルティネッリ政権が発足した。中米では、明らかに左傾化は止まった観がある。南米でも、20101月のチリでの決選投票では右派のピニェラ候補の当選が確実視される。ウルグアイでは3月に就任するムヒカ次期大統領は現政権与党の枠組みにあり、政権末期でなお80%の国民支持率を誇るタバレ・バスケス大統領の政治路線を引き継ぐ、と言明している。元ゲリラとは言え、一段の左傾化は無かろう。

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2009年12月15日 (火)

オミナミ票の行方-チリ大統領選

1213日に行われたチリ大統領選で、野党連合「チリのための同盟(以下同盟)」候補の元国民革新党(RN)党首、ピニェラ上院議員が、与党、「諸党連合(以下連合)」候補でキリスト教民主党(PDC)のフレイ元大統領を14ポイント強の差を付け、44%の得票で第一位となった。大統領選で第三位だが社会党を離れ独立候補として出馬し20%得票のエンリケス・オミナミ下院議員の票が、117日に行われる決選投票でフレイにどれだけ流れるか、が注目される。

同時に行われた議会選挙結果は全議席を更新する下院の場合、「同盟」が58議席、「連合」が57議席と拮抗している。だが、2005年選挙との比較では前者が3議席増、後者は8減である。政党別では、1989年の民政移管後、議会第一党の座を守ってきた「同盟」の独立民主連合(UDI)が37議席で2005年選挙に比べ4議席増やし、同じくピニェラ候補のRN1減の18議席だ。一方の「連合」は、フレイ候補のPDC1減の19議席とし、民主の党(PPD)が3減、社会党が4減、急進民主党が2減の、夫々18115議席になった。少なくとも「連合」を構成する諸党の退潮が見て取れる。仮にフレイ候補が逆転勝利しても、議会対策に苦労しよう。バチェレ大統領の国民支持率は、政権末期の今も80%近い。不思議な現象ではある。一般的にピニェラ候補の勝利が伝えられるが、議会対策で苦労するのは同様だ。

ピニェラ勝利で政権交代となると、ピノチェトの19739月のクーデターを支持したことで知られるホルヘ・アレッサンドリ(チリ史上改革者として名を残し1920-26年、32-38年の二度大統領を務めたアルトゥーロの息)の政権(1958-64年)以来、56年ぶりに選挙を経た右派政権の誕生である。このことは又、ラテンアメリカで進んでいる政権左傾化に逆行する。今頃からピニェラ政権誕生を歓迎する旨を公言するのが、海域の国境線を巡りハーグ仲裁裁判所に訴訟を起こし、最近にはスパイ事件が発覚した、としてチリを非難するガルシア・ペルー大統領で、何としても現与党の継続を、と公言するのが、再選なったばかりのモラレス・ボリビア大統領だ。

「同盟」を構成するUDIRN1983年、未だ政党合法化が成らない時に保守派勢力によりUDIが創設された。彼らは、ピノチェトの自由主義経済政策を支持し、彼の政権にも関わった、といわれる。1988年に行われた1997年までのピノチェト大統領続投の是非を問う国民投票では、これを認める側に回った。その前年、露骨な親ピノチェト路線に嫌気したメンバーがUDIを離党し、RNが創設された。だが、国民投票で「ノー」が決まった後、両党は大統領選で連合を汲むようになる。一本化が崩れたのは、この前の2005年選挙だ。UDI自体は常に議会第一党の座を守ってきたが、そのラビン候補は第三位、第二位は僅差ながらRNのピニェラ候補だった。だが決選投票ではピニェラ候補を支持、バチェレに敗れはしたが、得票率は45%に上った。概ねラビン候補の得票分を上積みできた。

オミナミ候補の票がフレイに流れない、とすれば、2005年の右派勢力とは全く逆の現象が起きることになる。また中道のPDCと左派の社会党、中道左派のPPD及び民主急進党による「連合」の枠組みに対する左派の反発が、彼を出馬に駆り立てたことを考えると、政界再編に進むのではないか、と考えたくなる。

だが、あまりチリの政権交代に神経質になることもなかろう。チリは、ピノチェト独裁の印象が余りに強すぎるため理解できない方も多いが、ラテンアメリカでは最も民主主義が根付いた国だ。政見の違いがそのまま政党として纏まるため、1930年代から多党化が進んだ。どこも議会勢力の過半数が取れず、結果的に連立政権が常態化した。共産党主導、とされる人民戦線(1936-46年)も、社会党主導のアジェンデ政権も、社会党と共産党だけではなく、急進党やキリスト教民主党の一部が合流した。「連合」も然りである。従って、政権交代で国家社会が急変することは考え難い。20年間も続いた現与党政権は中道左派と言われながら、ピノチェト時代と同様の市場主義経済政策に徹しており、米国との自由貿易協定も南米では真っ先に実現させた。「同盟」が政権を取っても、政策に継続性が断たれる大変動は考え難い。だから有権者は安心して、野党候補を当選させるのだろう。

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2009年12月 9日 (水)

モラレスとセラヤ

126日のボリビア総選挙で、モラレス大統領が再選され、2015122日までの新たな任期を確保した。得票率はまだ公表されていないが2005年選挙時の54%を上回り60%台確保が確実視されている。議会も、彼の与党「社会主義運動(MAS)」は目標だった3分の2の議席数には到達せずとも、上下院とも過半数獲得が間違い無いようだ。

122日、つまりボリビア総選挙の4日前、ホンジュラスではブラジル大使館に避難中のセラヤ大統領が議会により復権を断たれた。2010127日までの僅かな任期残も無くなった。その議会は、1129日に行われた総選挙で全128議席中70以上を占めるようになった模様の野党、国民党(現議席数は55)ではなく、セラヤ与党の自由党が65議席を占める(今回総選挙では45議席ほどに留まった模様)。いくら非合法選挙を声高に叫ぼうと、セラヤ大統領が国内で見放されたことをまざまざと見せ付けた。

中米でニカラグアに次ぐ貧困国のホンジュラスと南米で最貧国のボリビア。人口57千万のラテンアメリカ19ヵ国の中で、この2ヵ国は合わせてもその3%に過ぎない。だが今、最も注目を浴びる。前者は、クーデターで発足したミチェレッティ暫定政権下の選挙結果を巡り、そして後者は域内でも最大の反米政権として。

中米統合の父、と、今なお中米で敬愛されるモラサン(1792-1842)を生んだ国、ホンジュラスの先住民は、グァテマラとは異なり一大文明を築いたマヤ人ではなく、寧ろ南米北部のチブチャ民族の影響を受けていた。The World FactBook,09によれば人口の90%がメスティソ(白人と先住民の混血)という一大混血国で、マヤ王国を構成していたグァテマラ(半数が先住民)とは対照的だ。モラサン大統領時代にグァテマラが離脱したことが、中米連邦の崩壊を招いた。建国後のホンジュラスでは最高権力者が実によく代わった。建国後約80年間の内、僅か3人が最高権力者の座にあった隣国グァテマラとは対照的だ。ただ時代が下って1930年代、グァテマラのウビコ独裁(1931-44年)時代は、ホンジュラスでもカリアス独裁時代(1933-48年)と重なる。個人による長期独裁も、だからホンジュラスにもあった。1963年より82年まで、事実上の軍政が敷かれているが、グァテマラでは1954年より86年まで軍政、乃至は一時期を除き大統領は民選だが軍人、という時代だ。民政復帰後、ホンジュラスでは自由党、国民党の二大伝統政党の文民候補者が民選で大統領を務めて来ている。政党の栄枯盛衰の激しいグァテマラとは、これも対照的だ。

ボリーバル(1783-1830)が解放したアルトペルーはもともとインカ帝国を構成し、人種上もペルーと同質性があったが、彼の構想だったペルーとの一体化を嫌い、一国として独立した。代わりに、国名を彼の名前から取り、彼の国家思想を反映させた憲法を制定した。同じくThe World FactBook,09によれば人口の55%が先住民でメスティソは30%だ。建国後、ペルーとの連合国家や同盟による二度に亘る対チリ戦争(1836-391879-84)、及びパラグアイとのチャコ戦争(1932-35)の対外戦争を経験し、敗退し、内陸国となり、領土は現在の110万平方キロに縮小した。ラテンアメリカとしてはメキシコ革命に次ぐ二つ目の社会革命を成し遂げた(1952年)。1961年に米国のケネディ大統領が推進した「進歩のための同盟」では、国民一人当たりで域内最高額の援助を得た。だが64年に軍政となり、67年、ゲリラ活動を行っていたゲバラを捕獲し処刑した。軍政後半より親米色を強め、82年の民政移管後も継続された。だが、米国が麻薬戦争の一環で目の敵とするコカ栽培農家が先住民社会に多いこと、米国流新自由主義経済政策への反発、新たな資源として登場した天然ガスに関わるナショナリズムなどが、コカ農家出身のモラレスが大統領選に初めて登場した2002年頃には、国民レベルでの米国離れを招来していた。だが、米国大使の追放措置をとったのは、2008年に起きた15名の犠牲者を含む150名の死傷者を出す事件の後のことだ。反米的言動は、彼が第一次政権に就いても、ずっと抑えてきた。

ホンジュラス総選挙結果の承認をコロンビア、コスタリカ、ペルー、パナマ以外の域内諸国から得るまでには、まだまだ相当の時間がかかるようだ。128日にモンテビデオで開催されたメルコスル首脳会議では認めないことを決めた。ALBA諸国は11月末の共同声明で認めぬ旨を通告していた。域外では欧州連合(EU)もまだ認めていない。セラヤ大統領はブラジル大使館から、新たな政治勢力の結集を支持者に呼び掛けている。その名も「抵抗戦線」、恐らく内戦まで発展することはなかろうが、気になるところだ。

モラレス大統領の政治日程で重要とされるのは、4月に行われる地方選だ。反モラレス勢力の地盤で与党が知事の椅子を含め勝利すれば、エネルギー資源の国有化は名実ともに完成しよう。また、彼の政権基盤は一気に強化される。気になるのは、勝利宣言後チリとペルーの次期政権に関わる期待を公言し始めたことだ。対米関係の改善がどの時点で為されるか、と共に注目していきたい。

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2009年12月 2日 (水)

第19回イベロアメリカ首脳会議

1129日にポルトガルのエストリルで開催された第19回イベロアメリカ首脳会議が121日に閉会した。これにラテンアメリカでは赤字で記す下記8ヵ国首脳が欠席した。

この日、ホンジュラスではクーデターによって成立したミチェレッティ暫定政権下で問題含みではあるが総選挙(大統領と国会議員を選ぶ)が、ウルグアイでは大統領決選投票が行われた。124日にはボリビアでも総選挙が行われ、モラレス大統領は候補者としてこちらに注力せざるを得ない。またグァテマラでは議会の2010年予算審議が大詰めに来ており、大統領は国を離れられない。

先ずクーデターで成立した暫定政権下での総選挙、ということで正統性が問題となっているホンジュラスだが、ラテンアメリカ諸国ではパナマ、コスタリカ、ペルー及びコロンビアが選挙結果を承認することを決めた。選挙自体が公平であれば無視できない、として実質的に容認に傾いた米国の態度に続いた。セラヤ大統領復帰が先決、とするOAS始め米州の一致した要求を無視し切ったミチェレッティ暫定政権の戦術が、切り崩しに成功した格好だ。これは重要な懸念を抱え込む。ブラジル、アルゼンチンなど大半のラ米諸国が総選挙結果を承認しない、と断言している以上、ラテンアメリカ域内が分裂状態に陥ったこと、及びオバマ政権に交代して氷解した米国・ラテンアメリカ関係の再冷却化だ。首脳会議にはセラヤ政権のロダス外相が出席し、総選挙結果を承認しないよう強く訴えた。首脳会議の共同声明には、域内分裂を和らげる意味合いからか、総選挙への評価を棚上げしたまま「立憲体制(常識的にセラヤ大統領)への復帰」が盛られた。

ニカラグアのオルテガ、ベネズエラのチャベスいずれの大統領も欠席した。前者は、ホンジュラス総選挙結果を容認した隣国コスタリカのアリアス大統領への抗議、といわれる。もともとOASがホンジュラス問題の解決策としてセラヤ復帰を前提としたのはアリアス調停案とも呼ばれ、策定したのは彼自身なのだ。後者は、米軍への基地使用権問題を抱え、ウリベ・コロンビア大統領との同席を潔しとしない。また、ホンジュラス総選挙を認めない、という意味でも、ベネズエラは域内で最強硬派でもある。

キューバのラウル・カストロ国家評議会議長も欠席した。フィデル・カストロ前議長が体調を崩した2006年以降、ラウルに交代した後も、国家評議会副議長が出席してきた。第一回イベロアメリカ首脳会議は19917月、メキシコのグァダラハラで開催された。東西冷戦が終わって間もなかった。OASから追放されていたキューバのフィデル・カストロ議長が、ラテンアメリカ諸国首脳と一堂に会する機会を得た。この場が、米国のキューバ制裁を非難する国際的同調を引き寄せ、翌92年以降、毎年国連総会で非難決議が採択されるようになった。ところが、20033月にキューバ政府が反政府グループの指導者75人を一斉逮捕すると、キューバに温かった雰囲気は変わったようだ。欧州連合(EU)のキューバ制裁の影響もあろう。域内では左派乃至中道左派政権が増え、首脳外交も増えたが、イベロアメリカ首脳会議出席への優先度が低下した感が有る。

もう一人の欠席者は、パラグアイのルゴ大統領だが、聖職者出身で独身の彼に隠し子がいた、最近4人目が発覚した、というスキャンダルが背景にあるようだ。

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