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2009年10月18日 (日)

セラヤ復権を決めるのは誰?

ホンジュラスのセラヤ大統領は、強行帰国後ブラジル大使館に身を寄せ、そろそろ1ヵ月になろうとしている。軍部により逮捕され国外に強行追放された628日から、もう4ヵ月近くにもなる。この間、国際社会はミチェレッティ暫定政権を正統政権とは認めず、速やかなセラヤ復権を求め、経済援助まで凍結してきた。コスタリカのアリアス大統領が8月段階で示した調停案は暫定政権の言い分も聞いたものだが、ミチェレッティ側は、前提となるセラヤ復権自体を強硬に拒み、国際社会からの孤立も招いてきた。事態打開のため、と、セラヤが921日に強行帰国すると、外出禁止令、集会及びデモ禁止、及び報道規制に走り、さらなる顰蹙を買った。何とか平和裏の解決を見出すべく、OAS1078日、インスルサ事務総長を始めとし数ヵ国の外相も入った調停団を出した。

漸く、セラヤ、ミチェレッティ両側の夫々の代理者による交渉が、アリアス調停案をベースとして、またOAS立ち合いのもとでスタートした。調停団を前にし、ミチェレッティ暫定大統領は、セラヤは違法行為により最高裁判所が逮捕命令を出し追放された犯罪者であり、この事実から出発すべきだ、と繰り返した。国際社会は、民選大統領に対する明らかなクーデター、との立場だ。セラヤ追放劇には憲法改正の国民投票に際し、彼が軍幹部を解任したことに対する軍部の反発があることは明白なので、当然だろう。ミチェレッティ側は、軍政ではない、従ってクーデターではない、と主張する。全く理屈が噛み合わない。だから民主的解決への道が隘路に嵌まり込んでいた。

ともあれ、OAS立ち合いでスタートした当事者間交渉は、調停団辞去後も継続され、1016日までに、セラヤ復権に関わる手続き面を除き、合意を見た。議会の多数決なら受け入れる、というのがセラヤ側の立場だ。ところが最終段階になって、ミチェレッティ側は、セラヤを失権させた最高裁判所にこそ復権の是非を委ねるべし、と主張し出した。彼を追放したのは軍だが、「18項目の罪状」を理由に最高裁判所が出した逮捕命令が元にある。セラヤ側は、到底応じられない。

1129日、大統領選が行われる。候補者らの選挙活動については情報が入らないが、民選大統領を追放した中での選挙結果は無効、とされる。セラヤ側は復権期限を当初1015日、と設定した。これを過ぎて、一日単位で延ばし、今は19日とはなったが、若し交渉決裂、となれば、セラヤ側は国際社会に無効宣言をする、としている。

101617日、ボリビアのコチャバンバで第七回ALBAサミットが開催された。6月に名称が「Alternativa Bolivariana para las Américas 米州ボリーバル代替統合構想」から「Alianza Bolivariana para las Américas(米州ボリーバル同盟)」に変更された後の最初のサミットだ。加盟国間決済通貨、スクレ(Sucre-Sistema Unitario de Compensación Regional。ご存じ、バリーバルの副官で、エクアドル、ペルー、ボリビアを実際に解放したベネズエラ人の名前。2001年までのエクアドル通貨の名称でもあった)導入を正式に決める重要会合だ。ホンジュラスもメンバーで、パトリシア・ロダス外相(セラヤ政権)が代理出席した。このサミットでは、交渉が最終的に決裂した場合、暫定政権下のホンジュラスへの経済制裁実施の表明が為されたが、手詰まり感は否めない。

中南米でも最も貧しい国、ホンジュラスは、国際的孤立にあって経済援助も途絶え、国民は苦しんでいるようだ。こんな状況下にあって、セラヤ復権を巡る協議が纏まりそうな状況も見えた1014日、ホンジュラスが大朗報に沸いた。2010年のサッカー・ワールドカップ北中米地区予選で、エルサルバドルを下し28年ぶりの本大会出場を決めた、というもので、国中が喜びに包まれた。残念なことに、その後ミチェレッティ側が復権の是非を最高裁判所に委ねる、と主張し、交渉が暗礁に乗り上げた。この一両日中に、打開策が見出されることをひたすら祈りたい。

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