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2009年10月24日 (土)

オルテガの挑戦

ニカラグアの最高裁判所が、オルテガ大統領の申し立てを受け、大統領などの連続再選を禁じた憲法そのものが違憲、とする裁定を下した。最高裁には与党FSLNの判事が多い。裁定に反発する議員の抗議行動が注目される。ラテンアメリカ十九ヵ国の内、現在大統領の連続再選を認めるのは八ヵ国だが、四ヵ国はニカラグアを除く左派政権下の国で、その内の二ヵ国、ボリビアとエクアドルは、09年になって漸く実現させた。ALBA加盟国の左派政権国で連続再選を禁じているのは、今やニカラグアのみだ。

連続再選は左派政権下だからできる、というものでもない。アルゼンチンではカヴァロ・プランで、ブラジルではレアル・プランで夫々のハイパーインフレを収束させ社会経済安定をもたらしたメネム及びカルドーゾ政権期に実現した。コロンビアは言うまでもなく、ゲリラと麻薬組織に挑み、犯罪率を急低下させたウリベ政権下に実現した。国民支持率が高い大統領の下で初めて可能なテーマである。また大統領にカリスマ性も要求される。

FSLNのゲリラ出身のオルテガは19797月のニカラグア革命指導者であり、先ずカリスマ性は高い。キューバのカストロには及ぶまいが、ベネズエラのチャベス以上だろう。33歳で革命政権首班に就いた。カストロが実権を握った時と同年齢だ。79年から85年まで、また国際的認知度は低いものの民選大統領として85年から90年まで政権を担った。90年選挙ではビオレタ・デ・チャモロに、96年には立憲自由党(PLC)のアレマンに、また2001年にはその副大統領だったボロニョスに夫々敗退したが、得票率は41%38%42%と、国民の支持の高さを物語る。06年に返り咲きを果たし、11年に出馬すれば当選確実、とされる。それだけに抗議行動が激化していく可能性はあろう。

ラテンアメリカ最貧国のニカラグア。18384月にグァテマラに次いで中米連邦から離脱したものの、保守的なグラナダ地方、自由主義の強いレオン地方の融合が進まず、チブチャ系ミスキート族の先住民が定住するカリブ海岸一帯のモスケティアへの実効支配が及ばずいつしかイギリスの保護領然となっており、で、国家統合は遅れた。自由主義政権時代の1856年、米人のウォーカーという冒険家がニカラグア大統領に収まり、彼を追放するため中米諸国が結束して、いわゆる国民戦争まで起きた。建国どころではなかった。

18937月にセラヤ(José Santos Zelaya)が武力で政権を奪取した。国民戦争後絶えていた自由主義政権は、こうして暴力によってできた。彼は翌1894年、モスケティア地方を武力制圧し、イギリスから同地方のニカラグア帰属権を勝ち取った。一方では基本的人権や公教育の推進に注力し、インフラ整備を進めるなど、善政も多かった。だからこそ3選まで漕ぎ着けたが、現在のような公正な選挙の結果とは言い難い。ホンジュラスなどの政治勢力間抗争に介入し、当時の中米政情不安の基にもなった。

それから一世紀近くが過ぎ、そのホンジュラスでは、同じ姓のセラヤ大統領が、改憲の国民投票を断行しようとして、クーデターに遭った。時の大統領が連続再選を目指し、その結果クーデターで失脚した例は、ラテンアメリカ史を紐解くと、結構な数になる。だが、ニカラグアのセラヤは、米国が望む中米一帯の平和と安定に脅威を与える、との判断から、米国が反対派勢力への支援や隣国への圧力を行ったことは知られる。結局190912月に失脚を余儀なくされた。一世紀経ったホンジュラスでは、米国は国際世論と軌を一つにして、彼の復権を支持している。

ニカラグアのセラヤ失脚後、米国の介入が繰り返され、19128月から事実上の米軍統治時代(1912-251926-33年)を見た。この間も少しも国民生活向上は図られていない。米軍はニカラグアに国家警備隊という軍組織を作らせた。一方で、米軍統治に反発するサンディーノ(Augusto Nicolás Calderón Sandino)による反米ゲリラ闘争も行われた。彼は、米軍が最終的に撤収しゲリラ活動を停止した後の1934年に暗殺されているが、これには国家警備隊が絡んでいることがよく知られる。その長官のソモサ(Anastasio Somoza García)が事実上のクーデターで政権を掌握したのは、その2年後のことだ。彼は569月に暗殺されているが、その後は長男のルイスと二男のアナスタシオ(父と同名。区別するため父を「タチョ」、次男は「タチート」とも呼ぶ)が継いだ。ソモサ家支配は、43年間も続いた。やはり経済開発は進まなかった。

そしてニカラグア革命である。ここでも米国のCIAが登場したことがよく知られる。反革命勢力(コントラ)への支援だ。これがニカラグア内戦を呼び起こした。コントラの武装解除は、90年のことである。

ニカラグアの貧困を米国に帰す積りは毛頭、無い。あくまでも同国の為政者や社会構造上の問題だろう。ただ、ニカラグア理解には上述の史実は無視できない。

ニカラグア革命に、ビオレタ・デ・チャモロの夫で新聞社主のペドロ・チャモロ(Pedro Joaquín Chamorro Cardenal)の存在は大きかった。彼の反ソモサ運動が国民を動かし、彼が暗殺されたことで運動は一気に高まった。だから、オルテガが革命政府首班だった、としてもビオレタが入っていたことで革命は国内的にも国際的にも認知度を高めた。ここで指導力を発揮できたことで、オルテガの国内的名声も高まった。且つ、ニカラグア人なら誰でも敬愛するサンディーノの名前を持ったサンディニスタ軍を背後に抱える革命家、となれば、畏敬も出る。彼が次回大統領選で再選されると、任期は20171月まで、となる。19797月以降では彼が最高権力者である期間は、21年間に及び、セラヤの16年間を抜き、初代ソモサ「タチョ」の20年間を上回る。果たして実現出来ようか。これから連続再選に反対する勢力の多い議会の審議を経ることになる。

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2009年10月18日 (日)

セラヤ復権を決めるのは誰?

ホンジュラスのセラヤ大統領は、強行帰国後ブラジル大使館に身を寄せ、そろそろ1ヵ月になろうとしている。軍部により逮捕され国外に強行追放された628日から、もう4ヵ月近くにもなる。この間、国際社会はミチェレッティ暫定政権を正統政権とは認めず、速やかなセラヤ復権を求め、経済援助まで凍結してきた。コスタリカのアリアス大統領が8月段階で示した調停案は暫定政権の言い分も聞いたものだが、ミチェレッティ側は、前提となるセラヤ復権自体を強硬に拒み、国際社会からの孤立も招いてきた。事態打開のため、と、セラヤが921日に強行帰国すると、外出禁止令、集会及びデモ禁止、及び報道規制に走り、さらなる顰蹙を買った。何とか平和裏の解決を見出すべく、OAS1078日、インスルサ事務総長を始めとし数ヵ国の外相も入った調停団を出した。

漸く、セラヤ、ミチェレッティ両側の夫々の代理者による交渉が、アリアス調停案をベースとして、またOAS立ち合いのもとでスタートした。調停団を前にし、ミチェレッティ暫定大統領は、セラヤは違法行為により最高裁判所が逮捕命令を出し追放された犯罪者であり、この事実から出発すべきだ、と繰り返した。国際社会は、民選大統領に対する明らかなクーデター、との立場だ。セラヤ追放劇には憲法改正の国民投票に際し、彼が軍幹部を解任したことに対する軍部の反発があることは明白なので、当然だろう。ミチェレッティ側は、軍政ではない、従ってクーデターではない、と主張する。全く理屈が噛み合わない。だから民主的解決への道が隘路に嵌まり込んでいた。

ともあれ、OAS立ち合いでスタートした当事者間交渉は、調停団辞去後も継続され、1016日までに、セラヤ復権に関わる手続き面を除き、合意を見た。議会の多数決なら受け入れる、というのがセラヤ側の立場だ。ところが最終段階になって、ミチェレッティ側は、セラヤを失権させた最高裁判所にこそ復権の是非を委ねるべし、と主張し出した。彼を追放したのは軍だが、「18項目の罪状」を理由に最高裁判所が出した逮捕命令が元にある。セラヤ側は、到底応じられない。

1129日、大統領選が行われる。候補者らの選挙活動については情報が入らないが、民選大統領を追放した中での選挙結果は無効、とされる。セラヤ側は復権期限を当初1015日、と設定した。これを過ぎて、一日単位で延ばし、今は19日とはなったが、若し交渉決裂、となれば、セラヤ側は国際社会に無効宣言をする、としている。

101617日、ボリビアのコチャバンバで第七回ALBAサミットが開催された。6月に名称が「Alternativa Bolivariana para las Américas 米州ボリーバル代替統合構想」から「Alianza Bolivariana para las Américas(米州ボリーバル同盟)」に変更された後の最初のサミットだ。加盟国間決済通貨、スクレ(Sucre-Sistema Unitario de Compensación Regional。ご存じ、バリーバルの副官で、エクアドル、ペルー、ボリビアを実際に解放したベネズエラ人の名前。2001年までのエクアドル通貨の名称でもあった)導入を正式に決める重要会合だ。ホンジュラスもメンバーで、パトリシア・ロダス外相(セラヤ政権)が代理出席した。このサミットでは、交渉が最終的に決裂した場合、暫定政権下のホンジュラスへの経済制裁実施の表明が為されたが、手詰まり感は否めない。

中南米でも最も貧しい国、ホンジュラスは、国際的孤立にあって経済援助も途絶え、国民は苦しんでいるようだ。こんな状況下にあって、セラヤ復権を巡る協議が纏まりそうな状況も見えた1014日、ホンジュラスが大朗報に沸いた。2010年のサッカー・ワールドカップ北中米地区予選で、エルサルバドルを下し28年ぶりの本大会出場を決めた、というもので、国中が喜びに包まれた。残念なことに、その後ミチェレッティ側が復権の是非を最高裁判所に委ねる、と主張し、交渉が暗礁に乗り上げた。この一両日中に、打開策が見出されることをひたすら祈りたい。

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2009年10月 3日 (土)

2016年オリンピック

2009102日、コペンハーゲンの国際オリンピック委員会総会で、2016年五輪開催地にリオデジャネイロが決まった。フアン・カルロス国王、鳩山首相、オバマ大統領が駆け付け招致演説したマドリード、東京、シカゴを押さえた結果で、やはり招致演説に駆け付けたルラ大統領が、これでブラジルが一流国として世界に認められた、と涙した姿に感動した人は多かろう。中南米各国の首脳からも手放しの祝賀が寄せられている。

102日と言う日は、1968年、トラテロルコ広場に集合した1万人ほどの学生らのデモ隊に出動した治安部隊が発砲し、40人とも300人とも言われる犠牲者が出た、いわゆるトラテロルコ虐殺事件が起きた日でもある。この年、メキシコでは中南米最初のオリンピックが開催された。非先進国では初めての大会だった。莫大な費用がかかる。メキシコ人一般の生活水準は低く、労働組合や学生らに五輪開催への反発が募った、という。一方で、世界中のメディアがメキシコに集まってきていた。この事件は、テレビを通じ生々しく世界に発信された。オリンピックのメキシコ大会自体は無事に開催されはしたが、以後、モスクワ、ソウル、北京、と、いわゆる非先進国での開催が増えているのに、中南米から開催地候補に名乗りでる国が長年に亘り途絶えてしまった。

1968年は、学生らを中心とした反政府運動が燎原の火のように世界中に燃え広がった年として記憶される。キューバ革命後の60年代、左翼思想に突き進んだ学生、労働運動は中南米に蔓延し、多くの国が軍政に入った。ブラジルも、左派系のグラール政権を転覆した軍政が64年に発足し、21年間も続いた。67年の10月、ボリビアで革命運動を行っていたキューバ革命の英雄、チェ・ゲバラを処刑したのも、ボリビア軍政だった。トラテロルコ事件の翌日にはペルーに左派軍政が誕生し、その一週間後には、殆ど五輪に合わせたようなタイミングで、パナマに民族主義軍政が成立した。エクアドルやボリビアで軍内左派が主導する時期さえあった。要するにそんな時代のことで、軍政化を免れた数少ない中南米諸国の一つメキシコには、時期として不幸だった気もする。その二年後、同じメキシコでサッカーのワールドカップも開催されたが、この時は何事も無かった。

トラテロルコ虐殺から41年、リオ大会は、開催費用は当時のメキシコ大会とは比較できぬほどの巨額に上ろう。ブラジル国民は、当時のメキシコ国民以上の生活水準を得ている。ルラ大統領自身が左翼系の人で、福祉や貧困対策にも積極的だ。国際的知名度も非常に高い。国民的人気もある。サッカーのワールドカップとオリンピックが続けて同一国で開催されるのは、今までは上記メキシコ以外ではドイツ(72年と74年)と米国(94年と96年)しか無い。2014年にワールドカップで開かれるブラジルは、4番目の国となる。お祭り好きなブラジル人には、嬉しいニュースだ。問題の治安問題を何とか凌いで、いずれも大成功となって欲しいものだ。

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