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2009年9月29日 (火)

南米・アフリカサミット

200811月のワシントンでの第一回会議(ワシントン)から、20094月のロンドン会議を経て第三回会議が9月にピッツバーグで開催されたG20サミット。EU委員会を入れて20なので、国としては19ヵ国だ。もともと環境問題や昨年来の世界金融・経済危機に関してはG8に限らず主要新興国とも話し合う機会が必要、との考えからスタートしたものだが、今やG8に代わる役割すら期待されるようになった。G8GDP合計は34.5兆㌦、全世界の55%を占める。これに対し他11ヵ国は12.6兆㌦、20%(以上、数字はCIAThe World FactBookによる2008年、以下同)。一大勢力であるのは間違いないが、G8の三分の一強の水準で、聊か見劣りがする。だがGDPだけでいえば中国は世界第三位だし、ブラジルはカナダを凌ぐ。

G81975年の東西冷戦時代、日欧米の西側先進7ヵ国で構成されるG7が出発点だ。当時GDP第七位のカナダが入った。西欧4ヵ国にバランスをとるためかカナダが入った。ソ連崩壊から1年半後の1993年、ロシアが加わったG7+1になり、それが発展したものだ。これ以外の11ヵ国は、どのような基準で選ばれたのか。国際的発言力が強いBRIC’sの非G83ヵ国が選ばれたのは自然な流れだ。この内の中国はGDPでも世界第三位の経済大国だ。国連安保常任理事国でもある。インドは人口で中国に次ぐ世界第二位で、それも中国を追い越そうとする勢いだ。また、世界の酸素の四分の三を供給している。だから、分からないでもない。GDPが1兆㌦を超える、という基準なら、メキシコとオーストラリアが入る。五大陸全てから、且つイスラム圏からも、という意味なら南アフリカとサウディアラビアが入っているのも分かる。以上で15ヵ国になる。安保常任理事国プラス10ヵ国だ。それでも、年2回のサミットを開催、となると、事務方は大変だ。鳩山さんがG8の機能は残すべき、と言ったのも感覚的にはよく分かる。それに韓国、アルゼンチン、トルコ、インドネシアも入る。

これに出席したルラ(ブラジル)、フェルナンデス(アルゼンチン)両大統領は、その後ベネズエラのリゾート都市、マルガリータ島のポルラマル市に向かった。第二回南米・アフリカサミット(ASA)に出席するためだ。925日、ペルーとコロンビアを除く南米諸国連合(UNASUR)とアフリカ連合(AU)加盟国から、28ヵ国の首脳が集まった。殆どが国連総会から駆け付けた。AUはモロッコを除くアフリカ53ヵ国で構成され、1年持ち回りの議長国は、現在リビアである。勿論、カダフィ大佐も出席した。AUの経済データには私は不案内だが、UNASURとは落差がかなり大きいのではなかろうか。人口は合計で8.5億人、インド並みで潜在性は高い。地図で見ると南米とアフリカは結構近い。ブラジルとベネズエラはアフリカ系国民が多く民族の絆もあろう。

対アフリカ外交に積極的なのはEUも同じだし最近では中国の積極性が目立つ。大西洋を隔てただけの南米にとっても絆を強めておくべき地域であることは間違いない。だが、AUの本当の魅力は、国の数ではなかろうか。ブラジルは国連安保常任理事国となる悲願を抱く。53ヵ国は、大票田でもある。ブラジルの常任理事国入りは、UNASURとして応援している。

ガイアナとスリナムを除くUNASUR10ヵ国のGDPは、The World FactBookによれば計3兆㌦、世界シェアで5%だ。UNASURを一つ、と見れば、中国やイギリス、フランスと遜色が無い。一つと見て良いか。確かに言語でいえば、スペイン語とポルトガル語の僅かな違いしか無く、首脳同士が通訳抜きで、相手をファーストネームで呼び合う。何かと言えばよく集まる。ラテンアメリカ統合は解放者ボリーバルの見果てぬ夢だったが、チャベス大統領は彼を崇敬する。南米でも異端児といえる彼は、二十一世紀の社会主義を目指す立場からは、政治路線に大きな違いのあるルラ、フェルナンデス、バチェレ(チリ)、ルゴ(パラグアイ)、タバレ・バスケス(ウルグアイ)とも親密な付き合いを続ける。勿論、コレア(エクアドル)とモラレス(ボリビア)は同志扱いだ。皆、ASAサミットに駆け付けた。ここで、UNASUR下部組織ともいえる南米銀行設立合意書に署名した(チリは同銀行ではオブザーバーの立場だ)。

だが、コロンビアの7ヵ所の基地に米軍が配属されることを巡り、ベネズエラは同国との亀裂を深めている。UNASUR8月のブエノスアイレスでのサミットで米軍の国境を越えた作戦展開が無いように監視することを決めたが、具体策はまだだ。何より、チャベスは米軍を、且つコロンビアのウリベ大統領をまるで信じようとしない。ここでは、UNASURの構成国同士でありながら、主権国家と内政不干渉を高々と叫ぶ。ついでながら、ボリビアが太平洋への出口を確保するため行っているチリとの交渉に、ペルーが強く反発する。ベネズエラのメルコスル加盟は、ブラジルとパラグアイの議会が批准せず、中ぶらり状態だ。アルゼンチンは、UNASURやメルコスルでの盟主を、ブラジルに挑んでいるかのようだ。救いは、20083月以来国交断絶状態のコロンビア・エクアドル間に関係修復の兆しが見え始めたことだろう。

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2009年9月23日 (水)

セラヤ復権はなるか―ホンジュラス

921日の月曜日、3カ月近く前に追放されていたセラヤ大統領が陸路、帰国した。丁度国連総会で世界中からニューヨークに首脳が集まる時期を選んだかのような動きだ。暴力の応酬を恐れる米政府は、帰国を思い止まるように言ってきたそうだが、そのニューヨークでは彼の帰国後、ヒラリー・クリントン米国務長官がアリアス・コスタリカ大統領ともども記者団に対し、セラヤ、ミチェレッティいずれも攻撃的な行動を慎むよう訴え、セラヤをテグシガルパの大使館に保護しているブラジルのルラ大統領は、治外法権を有する大使館への攻撃を強く牽制する。ミチェレッティ暫定大統領は、セラヤが帰国すれば逮捕、を言明していたが、ブラジル大使館にずっといつのなら構わない、但し一切の政治行動は厳禁だ、と主張する。国内のセラヤ支持者らはブラジル大使館の前で気勢を挙げ、治安部隊に催涙弾などで排除される、という事態も見られ、大使館は一時、水道、ガス、電気すら供給を止められ食料も無かったそうだ。

そもそも、セラヤ追放はクーデターに相当する、として、国際社会は暫定政権に対しセラヤ復権を強く呼びかけてきた。ノーベル平和賞受賞者のアリアス大統領は、一時期、新型インフルエンザに罹患し隔離されるなど災難に遭いつつも、暫定政権にも受け容れ易いように、セラヤ大統領には再選への憲法改正を求めさせず、また権限も縮小させる、という最終調停案まで提示していた。米州機構(OAS)が支持した。勿論米国も支持した。米国はソト・カノ基地からの米軍撤収こそしていないが、ホンジュラス援助を凍結し、同国幹部に対する入国査証も無効化した。EUも援助を停止した。これでセラヤ復権を促してきた。だが暫定政権は、セラヤが最高裁判所の判断で違法行為を理由に追放された以上、復権は絶対に有り得ず、との立場を頑強に守ってきた。つまり、アリアス調停案は宙に浮いたままの状態である。一方で、本年1129日の大統領選に向けた選挙運動が始まった。国際的に承認されない暫定政権下では、ここで誰が選ばれようとも承認は受けられない。暫定政権下のホンジュラスはつまり、国際的には完全孤立状態で隘路に入り込んでしまっていた。そこに彼が強行帰国を断行した。

800万人に満たない人口、GDP140億㌦と、ニカラグアとボリビアに次ぐ低さ、歴史的にはグァテマラやニカラグア、そして米国の介入を受け続けてきた小国。ホームページの「ラ米の政権地図」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C3_1.htm#1でも述べたが、現在、この国では大統領には終生一度しかなれない。メキシコ、パラグアイ、グァテマラも同様だが、その元になる歴史的反省の中身は相当に違う。メキシコには35年間に亘るディアス時代(1876-1911年)がある。パラグアイには建国以来57年間を僅か3人が支配した上にやはり35年に亘るストロエスネル時代(1954-89年)がある。グァテマラでも独裁は繰り返された(建国後の28年間、1870年からの15年間、1898年からの22年間、1931年からの13年間)。ホンジュラスも、独裁者は確かに何人か出た。しかし他3ヵ国とはその度合いが違う。連続再選の道もあるドミニカ共和国(トルヒーヨ支配を経験)、非連続再選可能なニカラグア(ソモサ支配を経験)などよりもインパクトは小さい。終生一度しか政権に就けないことの是非を問いたい、と改憲への国民投票の実施を図れば、最高裁が違憲を理由に逮捕を命じ、具体的には軍が武器を持って大統領を拉致し国外に放出したことを正当化する暫定政権。ちょっと理解し難い。

セラヤも国際社会の呼び掛けに応じ、アリアス調停に署名する意向を表明している。ミチェレッティは、これまでセラヤ復帰を断固阻止する旨繰り返してきたのに、帰国したら、アリアス調停自体が無効、と主張し始めた。国際社会は全て、話し合いによる平和的解決を呼び掛け、セラヤもミチェレッティとの話し合いに応じる用意も表明しているが、後者にはその気は無い。アリアスが仲介役としてテグシガルパに駆けつける、と言うのに、これにも応じない。長年に亘りホンジュラスの保護役を務めてきたかの米国が、中道左派の自由党から大統領になったセラヤがカストロ兄弟との交誼を深め、チャベスと親密で、彼が主催するALBA米州人民ボリーバル代替統合機構)に加盟したことには失望していように、彼を擁護している中で、だ。ルラ大統領も、米国務省も、ホンジュラス問題に関わる安保理開催を要請した。その決議がアリアス調停の順守、となって、果たしてミチェレッティを従わせることが可能だろうか。イラクの故フセイン大統領や北朝鮮の金総書記と同じく、頑なに決議に背き、最悪の事態さえも惹き起こす積りなのか。そもそもミチェレッティの対応にホンジュラス国民の世論はどうなのだろうか。

最後に米国の対応について一言。ラ米で悪評高い米国の対ラ米介入の歴史に見るまでもなく、近年では1980年代の中米危機で、米国はホンジュラスのソト・カノ基地を使い、ニカラグアの反革命(コントラ)支援、及びエルサルバドル政府軍によるFMLN制圧支援に当たった(ホームページ「ラ米と米国」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C12_1.htm#5参照)。当時も現在同様、民主的に成立した政権を支持する、というのが基本的な立場だが、当時のニカラグア革命政府は当初米国も支持していた。だが、ソモサ派武装組織の拠点を、民政移管期にあったホンジュラスに置かせ、これをCIAが訓練し政府転覆のゲリラ活動を支援する。これは選挙で成立した第二次オルテガ政権でも変わらなかった。一方、支援するエルサルバドル政府は、ホンジュラス同様、民政移管期にあった。ニカラグア政府とエルサルバドル反政府ゲリラにキューバの支援がある、との理由付けが為されていた。まだ東西冷戦時代にあり、ラ米にキューバ的なものは容認できなかった時代背景はある。それでも、今回の対応は、ラ米を見つめる一人として、大きな変化を感じずにはおれない。

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2009年9月16日 (水)

チリ大統領選挙を前に

20091213日に行われるチリ大統領選(決選投票は翌117日)の主要候補が出揃った。現政権の与党連合(Concertación de Partidos por la Democracia民主諸党連合)候補のフレイ元大統領(67歳)が野党連合(Alianza por Chileチリのための同盟)候補のピニェラ(選挙時60歳)上院議員に支持率で後れをとっているが、台風の目となっているのが独立候補のマルコ・エンリケス下院議員(36歳)だ。ピノチェト体制により拷問の上殺害された元左翼革命運動(MIR)ミゲル・エンリケス(1944-74)書記長の息として知られる。その意味ではバチェレ大統領との共通性が見える。バチェレの父親がアジェンデに忠実な空軍将校で、殺害された時彼女自身が既に大学生(医学生)だったこと(マルコは父殺害時、生まれて間もなかった)など相違点は多いが。母親の再婚相手でやはりMIRの活動家だったオミナミ現上院議員は、19739月のクーデター後フランスに亡命している。そのため、マルコ自身も幼少の時代は同国で過ごした。バチェレも亡命生活を送ったが、20歳をとっくに過ぎてから、である。

養父は帰国後暫くエコノミストとして活躍、1993年、40歳で最初の与党連合エイルウィン政権で経済相を務め、その後社会党の上院議員となった。マルコ自身は映画界で政治ドキュメンタリーものを手がけてきたようだ。2006年、やはり社会党から下院議員になった。だが096月、養父と相前後して離党している。MIR創設者で、短い悲劇的な最後を遂げた活動家の息、マルコ、そして往年のMIR活動家の彼の養父いずれも、現在その一員、とは聞かない。MIR自身も与党連合を支持していない。

MIRのホームページを開くと、トゥパマロス(ウルグアイ)、FSLN(ニカラグア)、FMLN(エルサルバドル)、キューバの動静をよく伝えている。MAS(ボリビア)も同様だ。トゥパマロスについては、往年の闘士、ムヒカが次期大統領選の与党候補だ。このブログでもお伝えしたように、8月、バチェレを訪問した。MASでは、太平洋戦争(1879-84)の結果ボリビアがチリに太平洋沿岸部領土を譲渡したため失った太平洋への出口を確保する長年の二国間懸案事項があり、漸くモラレスとバチェレ両政権間で真摯な協議が煮詰めの段階にある。キューバについては、バチェレの前任者のラゴスは人権問題を理由に距離を置いた。だがバチェレはキューバを訪問し、カストロ兄弟との親交を深めた。だが、MIRがこれらを橋渡ししたわけではなかろう。

MIRはフレイの父でキリスト教民主党(PDC)を創設した政治実力者、フレイ・モンタルバ政権期の1965年に、コンセプシオン大学医学部の学生、ミゲルが主導して、左翼思想の学生運動家らにより、反体制組織として結成された。だから、PDCは打倒すべき体制側にあった。過激派労働組合や、都市の貧民街に支持を広げたことは知られるが、実は、PDC政権時代の活動については私にはよく分からない。結成5年後成立した人民連合(UP)のアジェンデ政権とは距離を置いた。UPの主要構成員たるチリ共産党とは思想的に相容れなかった。UPの政策が生ぬるい、との批判は浴びせながらも、しかしアジェンデ政権期に特段の反政府活動は行っていない。

MIRと言えば、ボリビアで1982年の民政移管後三代目の政権を担ったパス・サモラの党でもある。ペルーではトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)の前身でもある。前者は、1952年のボリビア革命を率いた国民革命運動(MNR)の左派グループが71年に独立して創設した政治組織で、後者はアプラ党左派グループが62年に立ち上げたゲリラ組織だ。チリのMIRも左翼ゲリラの一つとされており、クーデター後のピノチェト軍政から抹殺の標的にされた。1990年代まで武装解除はしなかった、ともいわれる。

とまれ、12月の大統領選に関して、世論調査で過去一年近く、ピニェラ候補がフレイ候補を数ポイント(最近では二桁)差で優勢だ。6月以降、マルコも二桁の支持率で推移している。どうもフレイ分を浸蝕しているきらいがある。だが、決選投票に持ち込まれても、差は縮まるものの、ピニェラ優勢の見通しは変わらない。相手がマルコになった場合でも同様だが、フレイの場合と比べ大差無い。

フレイは67歳にもなってまた大統領になる気でいる。父親は確かにPDCを創設し、そこから大統領になった行動力、指導力、カリスマ性を備えた人だ。それでも、ピノチェト軍政があったにせよ、一度しか大統領になれなかった。二度もなれたのは、連続再選が自動的に認められた建国期の3人と、大統領権限を著しく弱めたいわゆる「議会共和国」(1891-1925)を打破した改革者、アレッサンドリくらいだ。確かにチリでは名門家から大統領になる人が多い。そのアレッサンドリも息が大統領に就いた。他でもエラスリス、モント両家が複数の大統領を出している。それでも、フレイ家の二代目が、名政治家アレッサンドリと同じく二回も務めるのを、民意として認められようか。

政界の活動歴もまだ4年にもならず、厚相や国防相を歴任したバチェレとは比べられない。それでも二桁の支持率を得、しかも若し決選投票に臨めればピニェラ優勢ではあれフレイ並みの得票、という見通しだというから、大したものだ。世代交代を望む故なのか、実父ミゲルの人気の高さか。

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