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2009年8月24日 (月)

バチェレの選択-チリ

去る818日、本年10月に行われるウルグアイ大統領選の与党拡大戦線候補、ムヒカ(74歳)前農畜産漁業相がチリを訪問、バチェレ大統領と会談した。彼は都市型ゲリラとして有名だったトゥパマロスの指導者、れっきとした元戦士だ。トゥパマロスはもともとウルグアイ社会党の分派でもあった。ウルグアイが19736月から事実上の軍政に入り、ゲリラ活動家は逮捕、拷問、亡命の憂き目にあった。1933年、チリ社会党創設に参加し、後に民主的手段による社会主義政権を樹立したことで世界を注目させたアジェンデ元大統領(在任1970-73年)を、1973911日にクーデターで自決に追い込んだピノチェト将軍による軍政初期に投獄され拷問を受け亡命したバチェレには親近感を覚えるようだ。ラテンアメリカ史上、選挙で大統領になった女性4名の中で、著名な政治家夫人乃至未亡人でないのは彼女だけだ。

実はバチェレは現実政治の中ではアジェンデを結びつけにくい。彼の人民連合政権に支柱の一つとして参加していた共産党は、連立相手にはいない。親米だしピノチェト軍政時代の新自由主義経済政策を踏襲する(ホームページ「ラ米の政権地図」のアンデス諸国http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C3_1.htm#3を参照)。ウルグアイの現拡大戦線政権がタバレ・バスケス大統領からムヒカに継承されるとすれば、イメージとしてはより「左傾化」する。だが、バチェレの選択は、67歳のキリスト教民主党(PDC)、フレイ・ルイスタグレ元大統領だ。イメージとしては「右傾化」だろう。

チリでは、1922年に創設された共産党が何度か政権に参加した実績がある。3812月に十九世紀創設の伝統政党、急進党と社共両党が連立して発足した人民戦線、7011月からの人民連合がそうだ。482月、当時のラ米全体の動きと足並みを揃えた動きだが、非合法化された。その前月まで、政権与党だった。だが非合法期間は10年のみで、その後再び社会党と組んで人民連合に発展させ、改めて急進党をも引き入れ、アジェンデ政権樹立に繋げた。

現在のチリ国会の下院議席数(合計120)でみると、バチェレの社会党議席数は15だ。なるほど、党の分家とも言える民主主義党(PPD1987年にラゴス前大統領ら党右派が結成。社会党と連立)の21を加えれば、社会党「系」は議会第一党に相当する36議席にはなる。急進社会民主党(PRS。急進党の後継)も連立相手だが、議席数は7、共産党は今や議席はゼロだ。これでは政権は取れない。そこで手を組むのが、人民連合のライバルだった中道のPDC20議席)となる。アジェンデの前任者で、フレイ・ルイスタグレの父、フレイ・モンタルバ元大統領(在任1964-70)が1957年に結成した政党で、1970年選挙では決選投票でアジェンデを支持した。それでもクーデター前にアジェンデを不信任とした。

チリの現与党は、「コンセルタシオン(Concertación。民主主義のための政党連合、ほどの意味)」と呼び表わされる。議席数で上記4党など計65、過半数を占める。198810月、ピノチェト大統領任期を1997年まで延長することの是非を問う国民投票が、国際監視団の中で行われ、反対票が過半数を占めた。この結果彼は大統領としては退陣(国軍最高司令官としては97年まで残留)、翌年12月の民政移管に繋がった。その前に結成された(彼の任期延長に)「ノーを突き付ける国民連合(Concertación por el NO)」による運動が奏功した、といえるが、中心となったのがPDCだった。社会党も分裂しながらも、PRSと共にこれに参加した。

これに対するのは独立民主同盟(UDI。議席数33で単一政党としては第一党)と国民革新党(RN。同19議席。十九世紀創設の伝統政党、自由党と保守党が1966年に合併した国民党が前身)などで構成する「チリのための同盟」で、中道右派、乃至は右派と位置付けられる。議席数では54、政権交代の期待は抱かせるに十分な数だ。

198912月の民政移管後、コンセルタシオン政権が続く。エイルウィン、フレイ・ルイスタグレと二代続けて、2000年までPDCから大統領が出た。次に社会党との二重党籍を持つPPDのラゴス、バチェレと代わってきた。ラゴス政権下、女性ながら国防相を務めた。政治姿勢には安定感があるのだろうか、また、一人当たりのGDPではアルゼンチンやウルグアイを押さえラテンアメリカで第一位、経済政策も上手くいっている。過去1年半、南米諸国連合(UNASUR)議長として、左派はベネズエラやボリビア、右派はコロンビアまでをよく纏めた。

彼女への国民支持率は、3月頃で60%だった。これが最近40%ほどに落ち込んできてはいるが、政権末期としては高いのではなかろうか。この支持率をそのままコンセルタシオンが享受でき、同枠組みで政権が継続されるのかどうか。今のところ野党RNのピニェラ候補(60歳)の方が優勢、という。テレビ局のオーナーで、大富豪の彼は2005年大統領選でバチェレに敗退した。1988年の国民投票ではNOを投じている。

最後に新型インフルエンザH1N1への彼女の対応についても述べておきたい。チリの直近の感染確認者は1.2万人、これに比べてアルゼンチンは7千人、ブラジルが3千人、と報告されている。一方死亡者は夫々128人、439人、368人でチリの感染確認数に対する割合が圧倒的に低い。かなり愚直に、且つ真摯にこの問題に向き合っていることが分かる。彼女は6月末、WHOからH1NIへの対応について高い評価を得たメキシコに飛び、協力を取り付ける、素早い対応ぶりも見せていた。

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2009年8月19日 (水)

メキシコ大統領のブラジル訪問

815日から17日まで、メキシコのカルデロン大統領がブラジルを訪問した。この二ヵ国、The World FactBookによれば、2009年現在の人口は推計で合計3.1億人、ラテンアメリカ十九ヵ国全体の55%2008年のGDP予想値が2兆8千億㌦で、同じく3分の2を占める。ご周知の通り、両国ともG20と称する金融サミットに参加する。だから両国首脳がお互いに訪問し合うのは自然ではある。

 これに先立って、彼はコロンビアとウルグアイをも訪問した。メキシコを出発したのが812日、つまりNAFTA首脳会議を自国グァダラハラで終えたばかり、つまり同時期に行われたUNASUR首脳会議からも時間があまりたっていないタイミングのことだ。早速、後者に欠席したウリベ大統領と会談している。ベネズエラが激しく反発し域内問題として騒がれる、コロンビア政府による米軍への基地7ヵ所の使用権貸与については、NAFTA首脳会議でオバマ米大統領から、米軍基地は作らない、と断言されていたことを紹介し、域内兄弟諸国が国家主権を前提とした対話と相互理解を深めることで解決すべし、と、コロンビアに理解を示した。またウルグアイではタバレ・バスケス大統領から温かく迎えられた。ウルグアイは、軍政時代に大勢の亡命者を受け入れたことで、メキシコとは非常に好関係にある。

 

ブラジルで、彼は両国間のエネルギー部門での広範な同盟関係構築を訴えた。彼によれば、2004年に日量330万バーレルだった生産量は、今年250万バーレルにまで減少する。一方ブラジルは、やはり彼の発言として、僅か10年の間に80万バーレルから270万バーレルにまで増産した。彼は、2020年までにブラジルの産油量が570万バーレルまで増えよう、とまで述べる*。ここで、メキシコのPemexとブラジルのPetrobras両国営石油会社間技術協力を訴えた。PemexとしてはPetrobrasの持つ1万フィートの掘削技術が欲しい。彼らはこれまで最大で3千フィートまでしか掘削できていない。Petrobrasの掘削最深記録は、実にメキシコ湾で実現している。自国の産油量を高めたいカルデロンとしては、Pemexの意向を後押しするのは当然、という考えだ。また、バイオ燃料の技術導入にも大きな関心を示す。

The World FactBookによる2007年の産油量は、メキシコ350万バーレル、ブラジル228万バーレル。

 817日の首脳会談で、ルラ大統領が、メキシコが南米を、ブラジルが中米・カリブ地域を注視する時代の到来を夢見てきたが、これが叶った、とも述べた。カルデロン大統領は、ラテンアメリカの二大経済大国同士の貿易高が74億㌦の水準で満足すべきでない、として、PemexPetrobrasの協力関係の強化、及び2国間FTAの締結を主張した。対米依存率が高いメキシコは、現下の金融危機の影響がラテンアメリカ主要国の中で最も大きく、一方のブラジルは比較的軽度にとどまっている。ブラジルは自力で航空機まで生産する工業水準を誇り、加えて世界的な農業大国でもある。経済力は購買力ベースによるGDPは世界第9位(The World FactBookによる)、一つの市場として無視できぬ巨大さだ。メキシコはGDP世界第11位、と言っても、工業部門は米国企業による直接投資とNAFTA枠組みでの国際競争力に依存し、米国で雇用される国民からの送金、或いは米国からの観光客など、対米依存が強固だ。これからの脱却は、歴史的悲願でもあった。

メキシコとブラジル。前者はアステカ、マヤの高度文明をスペイン人が征服した地で、先住民とメスティソ(白人と先住民の混血)が多い。白人は2割弱だ。後者はポルトガル人による征服期は経ず、同じく植民したアフリカから奴隷を大量移入したことから、黒人とムラト(白人と黒人の混血)が多い。それでも白人は過半数を占める。建国は1822年、いずれも帝政による(私のホームページの「ラ米諸国の独立革命」の年表http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C2_1.htm#2を参照願いたい)。他のラテンアメリカ諸国は全て、アメリカ合衆国をモデルとして、共和制を導入した。

メキシコは、1年で帝政が崩壊し共和制に移行したが、国内の混乱、テハス(テキサス)の分離とその米国への併合、これに絡まる米国の侵攻(米墨戦争)での国土割譲、フランスの侵攻、と、独立後46年間、苦難の連続だった。ディアスの独裁期(1876-1911年)を経て、犠牲者数が国民の一割、ともいわれるメキシコ革命(1910-17年)に突き進んだ。独裁者を廃するために大統領は生涯一度しか務められない仕組みを作った。だから組織(政党)の力が強い。1934年から、全ての政権が6年間の任期を全うする、国際的にも稀有な政治状況が続く歴史を持つ。

他方ブラジルは帝政下、もともとアルゼンチン領土だったウルグアイを喪失したものの、列強の侵攻とは無縁、唯一の対外戦争とも言えるパラグアイ戦争には勝利、と、対照的な建国期を歩む。1889年の共和制移行を挟んで、メキシコとは異なり、隣国アルゼンチン同様、大量のヨーロッパ人移民を入れた。1930年のヴァルガス革命は、メキシコと異なり社会制度を変えるものではなく、且つ無血だった。ブラジル史上、共和制の中で飛び抜けた(しかしラテンアメリカでは結構多くみられる)長期政権(1930-45年、1950-54年)を担った。彼が自決した後、不安定な政治状況が続き、悪名高い軍政期(1964-85年)を経験する。民政下で選挙を経た大統領が、メキシコのように任期を全うするようになったのは、実に1995年以降のことだ。

ホームページの「ラ米の政権地図」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI3.htmにも述べているが、2000年にメキシコで国民行動党(PAN)政権が発足した。同党は右派、に位置づけられる。カルデロンはその二代目だ。それまで71年間継続して政権を担ってきた制度的革命党(PRI)は下野している。社会主義的なメキシコ革命を奉じる政党のはずだが、実際には新自由主義経済路線を採り、NAFTA加盟を実現させた。だからPANには政策面での継続性がある。方やブラジルの労働者党(PT)は、労働運動のカリスマ的指導者だったルラ自身が創設した。容共左派、と看做された。1989年から全ての大統領選に出馬する彼を、既存政治勢力は危険視した。漸く2002年に第一次政権に就いた後のことはご周知の通りだ。確かにカストロを尊敬し、またチャベス・ベネズエラ大統領など反米勢力とも信頼関係を築いているが、一方では米国からも信頼できる政治指導者、として高い評価を受ける。

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2009年8月12日 (水)

09/8月南米サミットの隠れた主人公、ウリベ

2009810日、南米諸国連合(UNASUR)の本部所在地、キトでサミットが開かれた。これにコロンビアのウリベ大統領が欠席した。エクアドルと断交中という事情もある。もう一つの状況として、コロンビアが米国と交渉中の自国領土内7ヵ所の軍事基地の長期使用に関し、隣国ベネズエラのチャベス大統領が、自国に対する侵攻計画がある、として激しく反発、一週間前に駐ボゴタ大使を召還するなど、急激に高まってきた対ベネズエラ緊張関係が無視できない。コロンビアも、ベネズエラがスウェーデンから1988年に購入した対戦車ロケット砲がFARCに渡っている、として非難を上げている(ベネズエラ側は1995年、コロンビアのもう一つのゲリラ勢力である「民族解放軍(ELN)」が国境駐屯部隊を襲撃した際、盗難にあった、FARCに渡った経緯は預かり知らぬ、と逆襲)。もっと言えば、断交中のエクアドルのコレア大統領が米軍のマンタ基地使用期限の延長を拒み、間接的に米軍のコロンビア展開に繋がった背景もある。

ウリベ大統領が出席することでサミット自体の紛糾を回避する配慮もあった、と思われる。このサミットへの欠席を前提に、彼は両隣国を除く南米諸国を、84日から6日まで行脚、彼の言い分は、軍事行動がコロンビア領土外を不適用とし、あくまで国内の麻薬犯罪とFARC取り締まりに限定されたもの、且つ米軍及びその関係者は合わせて1,400名に過ぎず、今までもコロンビア国軍への訓練などを行う米軍人600名が駐在している、また彼らに治外法権は認めず、などと説明して回った。行脚結果は概ね下記のようになる。

l  全面支持はペルー(ガルシア大統領)のみ

l  チリ(バチェレ大統領)は、あくまでコロンビアの主権に属する問題、として容認。一週間前には、彼女はコロンビア領内における米軍展開は南米域内に不安を広げるもの、と言っていた。

l  パラグアイ(ルゴ大統領)は、隣国領土の安全保障が不可欠、と釘を刺した上で、一国の主権と自決に属する問題、と位置づけ、またウルグアイ(タバレス・バスケス大統領)はウルグアイ自身がラテンアメリカにおける外国軍進駐には歴史的に反対してきた、と述べた上で、内政不干渉が外交の基本である点は十分考慮する、として、両国とも事実上容認した(消極的容認)。

l  ブラジル(ルラ大統領)は、コロンビア領土外不適用の内政問題、という点で一定の理解を示すが、最大限の透明性と熟考を要求。彼は一週間ほど前に、米軍展開は好ましくない、少なくともUNASURに設けられた南米防衛評議会に諮るべし、との意見を述べており、今回の会談でも強調した、という(反対)。

l  アルゼンチン(フェルナンデス大統領)との首脳会談結果は公式に出でいないが、相当厳しいやりとりがあったとされる。アルゼンチン側の報道では、彼女は、域内軋轢は抑えるべきであり、米軍基地問題はそれに逆行する、と述べた、という(反対)。

l  ボリビア(モラレス大統領)は、米軍展開の目的はコロンビア領内の左翼ゲリラや麻薬組織との戦争ではなく、南米領土に対する示威行動にあり、いかなる規模であれ米軍の域内展開を拒絶する、と強調、チャベスの盟友ぶりを発揮した(積極的反対)。

ウリベ欠席のキト・サミットでは、やはりコロンビアの米軍展開が最大のテーマとなった。積極的反対の立場をとるチャベス及びモラレス両大統領による米軍のコロンビア展開反対決議は見送られたが、ルラ、フェルナンデス、ルゴ、コレアの4人は米軍展開に懸念を表明した。特にルラは、麻薬取締まりと人道支援との名目で、昨年よりカリブ域内に展開している米軍第四艦隊を、名指しで目障り、とまで表現した。一方で彼は、南8月末にウリベ出席のサミットを当人が賛同する場所で持とう、とも提案、概ねこれが今回サミットの決議となる。場所はコレア議長の提案を受ける形でブエノスアイレス、ということになった。

チャベスは、米軍のコロンビア駐留で懸念される戦争は、ベネズエラのみならず南米他国にも拡大する、との持論を述べ、これを受けたルラが、国連総会開催時期に合わせて、オバマ大統領とUNASURサミットのメンバーによる会議の場を持ち、コロンビア駐留軍に関する米国としての考え方を聞こう、と提案、漸く散会に漕ぎ着けた格好だ。

ところで、キト・サミット終了後、コレア第二次政権発足のセレモニーが行われた。また、この南米サミットにはキューバ(ラウル・カストロ国家評議会議長)も出席、上記の米国第四艦隊に注意すべき、と訴えていた。一方、メキシコのグァダラハラでNAFTAサミットが同時期に開催されていたことも付記しておく。

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