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2009年7月21日 (火)

南米のヨーロッパ、アルゼンチン

WHOが出しているA型インフルエンザ(H1N1)集計は、76日のものが最後だ。その後、状況は変わり、アルゼンチンは713日では137人、とメキシコ(120人台)を抜いて世界第二位となった。フェルナンデス大統領は不快であろう。マンスル衛生相は、従来型季節性インフルエンザの死亡者の方が多い、と、わざわざ解説する。私が気になるのは、メキシコの4分の1という感染確認数だ。一人の死亡者も出ていないその時点での日本とほぼ同じ3千人台、隣国チリでは40人の死亡者を出しているが、感染確認数は1.2万人。米国は死亡者263人で感染確認数は4万人(この両国の数字は717日のもの)。アルゼンチンの数字はいかにも不自然で、確認が追い着いていないことは明らかだ。アルゼンチン衛生相は720日、テレビで、前日までに165人死亡した、と述べた旨のAP電では、完成確認数は不明だ。

首都、ブエノスアイレスを歩くと、周りは白人ばかりで、ヨーロッパを感じさせる。人種のるつぼ、「アメリカ」らしくない。

アルゼンチンが白人国になったのは、十九世紀終盤からのヨーロッパ人移民の大挙到来による。1870年、アルゼンチンの人口は200万人に届かなかった。その後の60年間に、400万のヨーロッパ人を移民として迎えた。1880年、ロカ将軍により大草原、パンパから先住民が締め出されたことが貢献した。結果、人口は1,200万、白人が90%以上、というラテンアメリカらしからぬ国が出来上がった。ブエノスアイレスの人口はこの間12倍増の200万を超え、中南米第一位だった。パンパに鉄道が通され、大農牧場が穀物、食肉のヨーロッパ諸国に対する一大供給地へと発展、輸出経済の進展が呼び込んだものだ。世界有数の経済富裕国になっていた。

ヨーロッパ人移民は一方で、強い権利意識をもたらした。労働者の団結権もその一つだ。1930年代の世界恐慌期、生活水準の向上を求める社会運動が繰り返されると、軍部が前面でこれを鎮圧する構図が生まれた。これは、第二次世界大戦前ならヨーロッパでも同様だった。大戦後も、フランコ体制のスペインやサラザール体制のポルトガルでみられた。だが、少なくとも西欧では例外だ。アルゼンチンでは、戦後間も無く民主選挙で大統領になったペロン(ホームページのラ米のポピュリズムhttp://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C9_1.htm#5参照)の時代が、労働者層を支持基盤として9年間続いた。彼が出身母体である軍部のクーデターで追放された後、軍部が政治の前面に出るか、背後で政治を動かす時代が、一時的断続期を除き、1982年まで続いた。民主化実現は、スペインに6年ほど遅れた。アルゼンチンがヨーロッパの仲間、とすれば、飛び抜けて遅い民主化だ。

フェルナンデス大統領が拠って立つ「正義党」は「ペロン党」とも呼ぶ。アルゼンチン史上最大のポプリスタのペロンに由来する。ラテンアメリカ史にいうポプリズモの基本思想はナショナリズムであり、ポプリスタには強烈なカリスマ性が求められる。政策面では労働者保護と経済活動への国家介入が見られる。ペロンより16年前に登場した隣国のヴァルガスは、ブラジル工業化の端緒を切った。ペロンは、外資経営のインフラ部門国有化を進め、貿易を国家統制下に置いた。政策運営にあたり、労組を恰も下部組織の如く動員した。

ペロンを支えたのは、労働者層に敬愛された夫人、エビータだ。彼女をヒロインとするミュージカルやハリウッド映画でみるアルゼンチンには、まさしくヨーロッパの香りが漂う。死去したのは1951年で、ペロン追放劇の4年前のことだ。ペロンが追放されても彼を支持する「ペロニスタ」は残った。大分時間が経って、その左派勢力が後に結成したゲリラ組織が「モントネロス」である。エビータを慕った。軍部は彼らに手を焼き、1973年、ペロン帰国を許可した。そして彼が選挙を経て政権に復帰した。亡命時代のパナマで知り合った、政治に素人のイサベル夫人を副大統領に据えた。彼が病死すると、彼女が大統領になった。こういう政治風土をヨーロッパで探そうとも、見つかるまい。モントネロスが活動を再開し、国内が騒然としてきた。彼女が国政担当能力に欠けることは明らかだった。19763月のクーデターの背景として記憶したい。

これ以降のアルゼンチン軍政は、3万人もの行方不明者(Desaparecidos)、と呼ばれる犠牲者を生んだことで、国際的に悪名高い。モントネロス構成員に限らず、彼らとの繋がりの疑いがある人たちが、軍部に強制連行され、遂に帰らなかったことから、そう呼ばれる。この時の軍政は対外債務危機も惹き起こし、加えてマルビナス(フォークランド)戦争敗北という失態もあった。非ヨーロッパ的というよりも、中南米でも最悪の軍政といえる。

アルゼンチンは、ヨーロッパ先進国の一員とも目された1930年頃から、政治的にも経済的にも、長い転落の歴史を見せてきた。ヨーロッパの民主主義が成熟の一途を辿り、経済成長を遂げてきた間、非民主的政治状況が作られ、経済成長が遅れた、との言い方が正確だろう。

ペロン党のイデオロギは左右に幅広く、1989年から10年間政権を担ったメネムの政見は、親米、新自由主義、公営企業の民営化、通貨の事実上の米㌦化政策だった。一方で対外債務を積み上げ、自国通貨の過大評価を背景に99年からの経済危機に繋がっていった。2003年に登場したキルチネルは、ペロン党左派と自認した。国家政策として産業保護と雇用創出に臨んだ。経済回復の影響もあって、06年はIMFへの巨額返済をも断行した。国民(と言って良かろう)は拍手喝采した。そして連続再選ではなく、ペロン党改革のため、党首の道を選び、妻を大統領選に出馬させた。偉大なる先人、ペロンと異なり、妻は既に政治家としての実績を積んだ法律家だ。堂々と選挙で勝利した。それでも、こんな政治状況は、ヨーロッパのどこにもあるまい。

しかし、食文化が豊かで、味付けがイタリア料理に似てワインも美味い。都市インフラは整っており、町並みはヨーロッパ的で美しく、また治安が良いことから、南米の大都市には珍しく、そぞろ歩きを楽しめる。芸術面では、例えばクラシック音楽界では世界的演奏家が輩出する。スポーツでも、国技のサッカーに留まらず、テニス、ゴルフなどでも世界的一流プレーヤーを出す。識字率97%、平均寿命76歳は、ヨーロッパ並み教育、医療水準を表す。やはりヨーロッパの一角にある、とみて良かろう。何しろ、国民生活上の豊かさには、眼を瞠らせられる。逆に、この国が困っても、同情しにくい。

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