« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月27日 (月)

ウリベの挑戦-コロンビア

コロンビアは中南米第三位の人口(ついでながらスペイン語圏第二位)、第四位の国内総生産を誇る域内の大国だ。

723日の外電によると、AH1N1インフルエンザによる死亡者は9名で、人口が三分の一のエクアドル(14名。但し26日外電による)より少ない。感染確認数に至っては245人でエクアドル(477人)の半数だ。東の隣国ベネズエラ(373人。死亡者はゼロ。但し24日の外電)よりも少ない。ペルー(3,099人)の十三分の一だが死亡者数(20人)では半分。感染確認が近隣諸国より遅れていることが窺がえる。

この国のウリベ大統領は、南米で唯一、右派政権を率いる(ホームページ「ラテンアメリカの政権地図」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C3_1.htm#3参照)。1886年のラファエル・ヌニェス(1825-94)以来初めての大統領連続再選を経て3年も経った今もなお、国内治安を急速に改善させた、として、国民支持率は非常に高い。大統領の連続三選を可能とする憲法改正のための国民投票があれば、6割近くが賛成する、との世論調査の結果が最近出された。

20025月の大統領選は、米国の9.11事件の余韻覚めやらぬ時期に行われた。同年2月、保守党のパストラナ政権とFARCとの和平交渉が決裂した。その直後、和平推進のために設けられた非武装地帯に、時の大統領候補だったイングリッド・ベタンクールが乗り込み、FARCの人質になっている。一方でFARCは、パラミリタリー(自警団)との武力抗争を余儀なくされていた。その自警団全国組織、AUCは、一般民間人へのテロ活動が眼に余る、ということで、米国によりFARC共々、テロリスト指定を受けていた。

ウリベが大統領に就任すると、AUCは政府との和平交渉に応じた。次に、対テロ活動への支援受け入れの一環で、400人から成る、と言われる米国軍事顧問団を招いた。いずれも2002年末のことだ。AUCとの和平交渉は進み、2007年までに武装放棄が実現した、といわれる。また、その内の麻薬犯罪に関与した幹部は米国に引き渡した。FARCに対する武力制圧作戦は継続されており、最近のメディアの中には、麻薬を資金源に持つ(Drug fundedFARCと表するところもある。彼らの手にある人質の内、政治家、官僚、軍人らを「政治的人質」と称し、仲介者を立てその返還交渉も行ってきた。

2007年末にベネズエラのチャベス大統領がこの仲介役を引き受け、翌年早々、人質6人が解放された。その際にチャベスによるコロンビア国軍への直接指示が問題となり、ウリベも感謝こそしたが両国関係は冷却化した。もう一つの隣国エクアドルとは同年3月の在エクアドルFARC拠点への軍の越境攻撃で、断交状態に陥り、ベネズエラもコロンビアとの国境に兵力を増派し、北アンデス諸国の外交危機を呼んだ(ベネズエラとはその後和解したが、エクアドルとは今日に至るまで断交したまま)。

20097月、上記ベタンクール、米人3名、コロンビア人兵士及び警官11名の救出作戦が決行され、成功した。この直後のウリベ支持率は、90%にまで高まった、という。だがその後、目立った動きはなく、支持率も下降気味だった。それでも彼の三選支持者が6割を占めるのは凄い。

既に彼の政権の国防相が次期大統領選を目指して辞任しており、その大統領選に憲法を改正して出馬するのかは疑問だ。

この国には、1849年から一世紀半以上も自由、保守の二大政党のどちらかが政権を担ってきた。こんな国は、中南米では極めて珍しい。1880年から、自由党の武力抵抗とも言える「千日戦争」(犠牲者は10万人に上るといわれる)制圧を経て、半世紀間にも亘って保守党が政権を担った。世界恐慌期の1930年から16年間は自由党、第二次世界大戦後の46年から53年まで保守党、53年から一時的な軍政を経て、58年より16年間は両党が交互に政権を委譲しあう「国民戦線」、74年よりは両党による政権交代の繰り返し、という歴史を辿った。

コロンビアは、1948年のボゴタ大暴動(Bogotazo)から10年近く続き犠牲者20万人を出した「ビオレンシア(La violencia。暴力)」の時代、現在も続く左翼ゲリラによる内戦、1980年代からの麻薬組織による犯罪、と、暴力のイメージが強い。しかし、上記の一時的軍政を除き、民政が続いた。一人の大統領による長期政権が無い、ということは、それだけ組織としての政党の力が強いことを示す。2002年に初めて、独立系のウリベ政権が登場したこと自体、特異だといえる。06年、彼は連続再選された。現コロンビア共和国が成立した1886年、ラファエル・ヌニェスが経験しただけの、まさしく例外的なことだった。

米軍のエクアドル・マンタ空軍基地使用期限は200911月に到来するが、コレア大統領が期限延長を拒否したため、米軍は期限到来を待たず9月までに撤収する。役割だった麻薬密輸組織の監視活動の拠点は、今後コロンビアの空軍基地3ヵ所及び海軍基地2ヵ所に移る。現在詳細についての協議をウリベ政権と行っているところだ。

米軍のコロンビア移駐、にベネズエラのチャベス大統領は、反発を強める。おりしも米国議会がベネズエラ政府機関の麻薬取り締まりに関るサボタージュを非難する決議が出された。折角オバマ政権との間で大使級外交関係復活が実現したばかりで、ベネズエラの対米関係が暗雲に襲われた。次は、08年初頭の時と同様の対コロンビア関係緊張が再発しそうだ。

ウリベ大統領は、自らの国民支持の基となる国内治安の回復には、「プランコロンビア」による軍事顧問400名派遣を含む米国支援が大きく貢献した、とみる。どちらかといえば米国はブッシュ政権時代の実績であり、エクアドルからの移駐組を含め、最大で1,400人の軍及び軍属の常駐体制に入るのは、オバマ政権による全く新しい動きだ。彼の外交政策の見直しが、コロンビア対エクアドル復交に何ら貢献せず、あまつさえベネズエラの反発を招き、一年前のアンデス北部外交危機を招来するようでは困る。だが、ウリベ自身はこの新たな米国支援をも肯定的に捉えている。

| | コメント (0)

2009年7月21日 (火)

南米のヨーロッパ、アルゼンチン

WHOが出しているA型インフルエンザ(H1N1)集計は、76日のものが最後だ。その後、状況は変わり、アルゼンチンは713日では137人、とメキシコ(120人台)を抜いて世界第二位となった。フェルナンデス大統領は不快であろう。マンスル衛生相は、従来型季節性インフルエンザの死亡者の方が多い、と、わざわざ解説する。私が気になるのは、メキシコの4分の1という感染確認数だ。一人の死亡者も出ていないその時点での日本とほぼ同じ3千人台、隣国チリでは40人の死亡者を出しているが、感染確認数は1.2万人。米国は死亡者263人で感染確認数は4万人(この両国の数字は717日のもの)。アルゼンチンの数字はいかにも不自然で、確認が追い着いていないことは明らかだ。アルゼンチン衛生相は720日、テレビで、前日までに165人死亡した、と述べた旨のAP電では、完成確認数は不明だ。

首都、ブエノスアイレスを歩くと、周りは白人ばかりで、ヨーロッパを感じさせる。人種のるつぼ、「アメリカ」らしくない。

アルゼンチンが白人国になったのは、十九世紀終盤からのヨーロッパ人移民の大挙到来による。1870年、アルゼンチンの人口は200万人に届かなかった。その後の60年間に、400万のヨーロッパ人を移民として迎えた。1880年、ロカ将軍により大草原、パンパから先住民が締め出されたことが貢献した。結果、人口は1,200万、白人が90%以上、というラテンアメリカらしからぬ国が出来上がった。ブエノスアイレスの人口はこの間12倍増の200万を超え、中南米第一位だった。パンパに鉄道が通され、大農牧場が穀物、食肉のヨーロッパ諸国に対する一大供給地へと発展、輸出経済の進展が呼び込んだものだ。世界有数の経済富裕国になっていた。

ヨーロッパ人移民は一方で、強い権利意識をもたらした。労働者の団結権もその一つだ。1930年代の世界恐慌期、生活水準の向上を求める社会運動が繰り返されると、軍部が前面でこれを鎮圧する構図が生まれた。これは、第二次世界大戦前ならヨーロッパでも同様だった。大戦後も、フランコ体制のスペインやサラザール体制のポルトガルでみられた。だが、少なくとも西欧では例外だ。アルゼンチンでは、戦後間も無く民主選挙で大統領になったペロン(ホームページのラ米のポピュリズムhttp://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C9_1.htm#5参照)の時代が、労働者層を支持基盤として9年間続いた。彼が出身母体である軍部のクーデターで追放された後、軍部が政治の前面に出るか、背後で政治を動かす時代が、一時的断続期を除き、1982年まで続いた。民主化実現は、スペインに6年ほど遅れた。アルゼンチンがヨーロッパの仲間、とすれば、飛び抜けて遅い民主化だ。

フェルナンデス大統領が拠って立つ「正義党」は「ペロン党」とも呼ぶ。アルゼンチン史上最大のポプリスタのペロンに由来する。ラテンアメリカ史にいうポプリズモの基本思想はナショナリズムであり、ポプリスタには強烈なカリスマ性が求められる。政策面では労働者保護と経済活動への国家介入が見られる。ペロンより16年前に登場した隣国のヴァルガスは、ブラジル工業化の端緒を切った。ペロンは、外資経営のインフラ部門国有化を進め、貿易を国家統制下に置いた。政策運営にあたり、労組を恰も下部組織の如く動員した。

ペロンを支えたのは、労働者層に敬愛された夫人、エビータだ。彼女をヒロインとするミュージカルやハリウッド映画でみるアルゼンチンには、まさしくヨーロッパの香りが漂う。死去したのは1951年で、ペロン追放劇の4年前のことだ。ペロンが追放されても彼を支持する「ペロニスタ」は残った。大分時間が経って、その左派勢力が後に結成したゲリラ組織が「モントネロス」である。エビータを慕った。軍部は彼らに手を焼き、1973年、ペロン帰国を許可した。そして彼が選挙を経て政権に復帰した。亡命時代のパナマで知り合った、政治に素人のイサベル夫人を副大統領に据えた。彼が病死すると、彼女が大統領になった。こういう政治風土をヨーロッパで探そうとも、見つかるまい。モントネロスが活動を再開し、国内が騒然としてきた。彼女が国政担当能力に欠けることは明らかだった。19763月のクーデターの背景として記憶したい。

これ以降のアルゼンチン軍政は、3万人もの行方不明者(Desaparecidos)、と呼ばれる犠牲者を生んだことで、国際的に悪名高い。モントネロス構成員に限らず、彼らとの繋がりの疑いがある人たちが、軍部に強制連行され、遂に帰らなかったことから、そう呼ばれる。この時の軍政は対外債務危機も惹き起こし、加えてマルビナス(フォークランド)戦争敗北という失態もあった。非ヨーロッパ的というよりも、中南米でも最悪の軍政といえる。

アルゼンチンは、ヨーロッパ先進国の一員とも目された1930年頃から、政治的にも経済的にも、長い転落の歴史を見せてきた。ヨーロッパの民主主義が成熟の一途を辿り、経済成長を遂げてきた間、非民主的政治状況が作られ、経済成長が遅れた、との言い方が正確だろう。

ペロン党のイデオロギは左右に幅広く、1989年から10年間政権を担ったメネムの政見は、親米、新自由主義、公営企業の民営化、通貨の事実上の米㌦化政策だった。一方で対外債務を積み上げ、自国通貨の過大評価を背景に99年からの経済危機に繋がっていった。2003年に登場したキルチネルは、ペロン党左派と自認した。国家政策として産業保護と雇用創出に臨んだ。経済回復の影響もあって、06年はIMFへの巨額返済をも断行した。国民(と言って良かろう)は拍手喝采した。そして連続再選ではなく、ペロン党改革のため、党首の道を選び、妻を大統領選に出馬させた。偉大なる先人、ペロンと異なり、妻は既に政治家としての実績を積んだ法律家だ。堂々と選挙で勝利した。それでも、こんな政治状況は、ヨーロッパのどこにもあるまい。

しかし、食文化が豊かで、味付けがイタリア料理に似てワインも美味い。都市インフラは整っており、町並みはヨーロッパ的で美しく、また治安が良いことから、南米の大都市には珍しく、そぞろ歩きを楽しめる。芸術面では、例えばクラシック音楽界では世界的演奏家が輩出する。スポーツでも、国技のサッカーに留まらず、テニス、ゴルフなどでも世界的一流プレーヤーを出す。識字率97%、平均寿命76歳は、ヨーロッパ並み教育、医療水準を表す。やはりヨーロッパの一角にある、とみて良かろう。何しろ、国民生活上の豊かさには、眼を瞠らせられる。逆に、この国が困っても、同情しにくい。

| | コメント (0)

2009年7月 9日 (木)

二つの中間選挙:アルゼンチンとメキシコ

アルゼンチン(628日)とメキシコ(75日)で中間選挙が行われた。前者では下院議員の約半数と上院議員の3分の1が、後者では下院議員の全員が対象だ。両国とも、与党が敗北した(以下、各国の政権と大統領については私のホームページから「ラ米の政権地図」の「政権一覧」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C3_1.htm#1)をご参照願いたい)。

メキシコとアルゼンチンは中南米で第二、三位の経済大国同士で、合わせると中南米イベロアメリカ十九ヵ国のGDPの三分の一、ブラジルを除くイスパノアメリカ十八ヵ国の55%を占める。The World FactBook 09年によれば、購買力平価ベースの08年の一人当たりGDPはともに14,200ドル、いずれも工業国だが、NAFTAを介して米国との分業体制にあるメキシコと、メルコスルを介して中南米域内最大の経済規模を誇るブラジルと一体的位置にあるアルゼンチンは、経済構造面での性格に違いが感じられる。一般的にアルゼンチンの方が先進国とのイメージが強い。

メキシコでは前回の2003年中間選挙でも野党PRI45%の議席数を確保、与党PAN30%と、15ポイントも議席を減らした。それでも2006年総選挙でPAN41%の議席を得て第一党を回復、僅差ではあったがカルデロン現政権を成立させた。この政権発足後3年弱で、麻薬組織絡みの死傷者は1.2万人に達した。4万人もの軍隊動員を含む強硬策と、米国政府からの支援、またオバマ政権発足後には米国からの武器密輸取締りの言質を引き出す外交上の成果は、国民には好意的に受け止められた。それでも敗北したのは、警察組織の一部と麻薬組織との癒着関係が次々と発覚したこと、米国の経済不況連鎖、そしてやはり新型インフルエンザの感染拡大と死亡者数の多さが影響したのだろう。

WHO76日集計表によれば、メキシコは感染確認数で1,0262名、米国の33,902名に次ぐ世界第二位、死亡者数も119名でやはり米国に次ぐ第二位だ。だが、メキシコでは新たな死亡者がほとんど止まり、政府の対応振りが6月末のWHO会合で高い評価を得た。感染者数7,326名と、カナダと世界第三位を争うチリのバチェレ大統領が中間選挙の直前、わざわざ訪問の上、この問題に関する連携を言明したのは、今やメキシコは頼り甲斐すら出ていることを示す。だが、選挙時点での国民には、そこまでは浸透していなかった。

3年後の総選挙で、前回同様、与党の挽回を演じるか、それとも政党としては前身結成から2000年までの71年間、連続して政権を担ったPRIの与党返り咲き成るか、注目される。

アルゼンチンは歴史的二大政党、ペロン党と急進党が分裂しており、政界地図を読むのは難しい。またメキシコは大統領の再選を禁じるだけに、政党そのものが果たす役割が非常に大きいのに対して、それを認めるアルゼンチンでは、個人の動向が注目される。だから単純な対比は控えたい。

ペロン党左派FPV(勝利のための戦線)を中心とした現与党勢力は、前回2005年中間選挙で過半数を確保し、この勢いを維持し2007年の総選挙でのフェルナンデス勝利に繋がった。彼女の夫、キルチネル前大統領は、ペロン党首として彼女を支える立場に移った。結果的に今回選挙で敗北した。そして党首として引責辞任に至った。敗北とは言え、与党勢力の議席数は相変わらず第一位だ。

フェルナンデス政権は、2008年の世界的食料価格の高騰の折り、輸出税引き上げを巡って生産者の強硬な抵抗を受け、食糧大国でありながら国内で食料供給不足に陥る事態まで惹き起こした。この国の中間選挙は10月に行われるのに、敢えて6月に前倒しした背景として記憶したい。要するに、政権の信任投票の性格もあった。だが、安定多数を誇った与党勢力は、選挙結果過半数を割り込んだ。このこと自体が敗北になる。選挙のタイミングも悪過ぎた。

アルゼンチンの感染者確認数は、メキシコと同じWHO集計表によれば2,485名、世界の第七位、南半球ではこの三倍のチリ、同二倍のオーストラリアをずっと下回っている。ところが死亡者は60名で、夫々その4分の16分の1だから、アルゼンチンの死亡率は異常に高い。メキシコでは新たな死亡者がほとんど止まっているのに比べ、アルゼンチンは、今、うなぎ上りに増えている。衛生当局の感染確認が追い着いていない証左とも言えまいか。保健衛生相も交代したが、前任者の辞任による。中間選挙の最終結果公表が遅れているが、新型インフルエンザで国民に不安が高まっていることも影響しているようだ。

フェルナンデスは、夫が次回選挙出馬を断念した、との憶測が広がり、その結果としてレームダックに陥った、と囃す向きがある。だが彼女は意気軒昂だ。野党勢力は連合しない限り、与党勢力には立ち向えない。

ホンジュラスの政変に関し、フェルナンデスはセラヤ大統領が国連総会を経て国際的な信認を得た上での強行帰国に際し、コレア(エクアドル)、ルゴ(パラグアイ)両大統領とインスルサOAS事務局長と共に、別便で同行するひとりとなった。暫定政権側に拒まれ、全員、この6月に発足したばかりのフネス政権下のエルサルバドルに集合した。セラヤはサンサルバドルからワシントンに飛び、ヒラリー・クリントンと相談し、結果としてアリアス(コスタリカ)大統領を調停役に選び、サンホセでホンジュラス危機に関る協議が行われることになった。

| | コメント (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »