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2009年6月29日 (月)

ホンジュラスの政変

大統領が早朝軍に急襲され拘束され、逮捕された閣僚が出て、そして大統領職は国会議長が任期残を代行する、となると、これはクーデターとみてよい。ホンジュラスで628日に実際に起きた。最高裁判所は、これを「民主主義擁護に必要な行動」と認めた。議会は「辞表」を受理し、憲法に則りミチェレティ国会議長が大統領を代行する、と発表し、実際に就任式も行い、主要閣僚の人事を開始し、また二日間の外出禁止令まで出した。当のセラヤ大統領は、外電によれば、先ず軍用機でコスタリカに連行され放逐された。ここで同国のアリアス大統領と並んで記者会見し、アリアスが中米のクーデターは消滅したと信じ込んでいた、と語り、セラヤは、自らはまだ大統領であり、帰国し、任期一杯その職を全うする、と訴えている。

僅か4日前の624日、ベネズエラのマラカイ市でALBA(米州人民ボリーバル代替統合機構)首脳会議が行われたが、ホンジュラスのセラヤ大統領が欠席した。ALBAAが従来のAlternativa、即ち米国のイニシアティヴによるFTAA(米州自由貿易地域構想)へのアンチテーゼである「代替」から、Alianza、即ち「同盟」に変更し、統合体としての組織強化を協議し、且つ、エクアドルが加盟する重要な会合だっただけに、眼を引いた。この国では軍、司法、立法府での反セラヤの動きが急を告げていた。彼自身はクーデターが近い、と訴え、チャベス大統領などが、セラヤ連帯を繰り返し発信してきた。米国のオバマ大統領もクリントン国務長官も、大統領拘束を非難した。国務省によれば、米国も原状復帰を呼びかけている。OASが緊急理事会を招集、速やか、安全、且つ無条件のセラヤ帰国を要求する、とする決議を行った。国連も大統領拘束を非難し、代表制民主主義への復帰を促した。

629日、SICA(中米統合機構)首脳会議がマナグアに招集された。ALBAの成員国ニカラグアのオルテガ大統領は、これにALBA諸国首脳を招待した。ホンジュラスもSICAに属しALBAにも加盟している。既にチャベスとエクアドルのコレア両大統領はマナグア入りし、セラヤは、アリアス共々、マナグアに向った。アリアスもリオグループ諸国首脳の出席を呼びかけた由で、かなり大規模な会議になるようだ。果たして、セラヤ復帰となるのか、注視したい。

628日、国民投票が予定されていた。本年11月に予定されている総選挙(大統領選を含む)とともに制憲議会選挙を行うことへの賛否を問うものだ。かかる国民投票の準備に駆り出される軍の参謀総長がこれを拒否したことで、大統領が解任した。すると最高裁がこれを違憲とし、参謀総長解任は不当、と断定した。いずれもこの国民投票自体を非合法、としていた。議会は、セラヤが憲法で禁止されている再選を狙っている、として、彼を弾劾した。この動きを捉え、軍が動いたもので、国民投票は結局行われなかった。

ホンジュラス。中米五ヵ国(ホンジュラス、グァテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ)で今も「中米の父」と讃えられるフランシスコ・モラサン1792-1842)を出した国である。それにパナマを加えた中米六ヵ国では、人口が779万人、グァテマラに次ぐ規模だ(The World FactBookによる2009年見通し)。GDP(国内総生産)でみると、イベロアメリカ(旧スペイン・ポルトガル植民地)十九ヵ国で中十三位の人口だが、2008年見通しでは十七位、ニカラグア、ボリビアに次ぐ域内最貧国である。人口の90%がメスティソで、7%が先住民とされる。平均寿命は69歳で、先住民比率が55%と最も高いボリビアに次いで短い。識字率は、そのボリビアよりも低い。

世界恐慌の影響で、1930年代にはイベロアメリカ諸国の殆どで社会が騒然としていた。ホンジュラスでも同様だったが、グァテマラ、エルサルバドル、ニカラグアで起きたようなクーデターは回避できた。その代り、二十世早々からの二大政党の一つ国民党で、1923年から最高権力を行使してきた将軍、ティブルシオ・カリアス1876-1969)による16年間連続の長期政権が敷かれた。その後も数年間、彼の影響力は続いた、といわれる。

さらに数年経過して召集された制憲議会が195711月、自由党のラモン・ビイェダ(1909-71)を大統領に指名した。国民の直接投票によらず誕生したこの政権は、196310月の大統領選を目前に、ロペス・アレヤーノ将軍(1921-96)による軍事クーデターで崩壊、一時的断続はあったが、それより754月まで、アレヤーノ軍政時代にあった。697月には隣国エルサルバドルとの不名誉な「サッカー戦争」(私のホームページ「ラ米の域内・対外戦争」の「二十世紀国家間戦争」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C8_1.htm#3参照)を惹き起こしている。彼の後も軍政が続いた。

19821月の民政移管に先立つ19804月、制憲議会選挙が行われた。この最大議席を得たのは、自由党である。現行憲法は、ここで決議された。任期が四年の大統領、副大統領など行政府で一度要職に就くと、二度と大統領選にも議会選にも出馬できないことがうたわれている。カリアスやアレヤーノのような長期政権を回避したい、との思いがあろう。セラヤが狙ったのがこの改正にあり、ひいては自らの再選を目指したことは間違いない。

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2009年6月24日 (水)

新型インフルエンザに思う

AH1N1インフルエンザ(世界的にはまだ英語でSwine Flu、スペイン語でGripe Porcina、即ちブタ・インフルエンザで通っているようだ)の感染確認数は、世界保健機構(WHO) 622日集計で、世界で52,160人となっている。多い順に米国21,449人(他に死者87人)、メキシコ7,624人(同113人)、カナダ5,710人(同13人)と、NAFTA加盟三ヵ国で占める。全世界の三分の二だ。死者数は、集計時点での全世界231人の9割にも上る。感染確認数に対する死亡者数の割合は、メキシコ1.5%、米国0.4%、カナダ0.2%で、メキシコの突出振りが目立つ。米州以外では、イギリス(感染確認数2,506人)とオーストラリア(同2,436人)が多い。死亡者は両国のみで、夫々1名ずつだ。

中南米では、上記WHO集計ではメキシコの次が感染確認数で、チリが4,315人。世界でもカナダに次いで第四位に相当する。この一月間で急増した。次がアルゼンチンの1,010人で、世界第七位だ。死亡者数は、アルゼンチン7人、チリ4人で、NAFTA三ヵ国以外の総死亡数18人の過半数を占める。これに続くのはパナマの330人で、かなり少なくなる。パナマは死亡が報告されていないが、確認数がさらに少ないコロンビア(71人)が2人、グァテマラ(208人)・コスタリカ(149人)・ドミニカ共和国(93人)が夫々1人ずつとなっている。この4ヵ国の感染確認数は合わせても521人、死亡者1人のイギリスとオーストラリアを遥かに下回り、世界第十一位のスペイン(同522人)並みだが、死亡者数が合わせて5人にも上る。

WHOの集計は毎日的確に全世界の最新情報を伝えているわけではない。メキシコは6月23日段階で確認数8,279人、チリ5,186人、アルゼンチン1,294人である。死亡者も夫々116人、7人(その他に183人が重症)、17人へと増えた。ドミニカ共和国は、感染確認数こそまだ108人だが、死者は2人になった。

中南米諸国がH1N1インフルエンザに対して抱く恐れは、我々日本人以上かも知れない。何しろ感染確認数に対する致死率が高い。異常と見られてきたメキシコと、現在のアルゼンチンは、その割合が同じになった。コロンビアとドミニカ共和国は、それを上回る。感染者数は公表された数の何倍にも上るのではないか、との疑念が出ても不思議ではない。チリの姿が普通だとすれば、十倍であってもおかしくない。中南米は、チリだけは別格で、一般的に医療インフラが未整備だから、とか、咳が出て発熱しても医者にかかれない人が多いから、という無責任な発想をする人もいるかも知れない。悲しいことだ。

上記WHO集計で感染確認数131人だったブラジルは、未だ死亡者こそ出ていないが、334人に増えている。それでも18千万の中南米随一の大国がこの程度である。チリやアルゼンチンの方が先進国なだけに、本当にこの程度で済んでいるのか、と、悲しい疑問も起きる。一方、冬入りしつつある両国に比べ、平均気温は高いから、と言い聞かせることもできる。同国保健衛生省はアルゼンチンとチリへの旅行を控えるよう勧告した。

中南米史を紐解くと、コロンブス後の先住民人口の激減の最大の理由が、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病に対し、先住民に抵抗力が無かったため、というのが今日、一般的な解釈である(私のホームページ「ラ米の人種的多様性」の中の「先住民」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C13_1.htm#2を参照)。その疫病とは、天然痘と麻疹、それにインフルエンザが挙げられる。現在の先住民は、それでも生き残った人たちの子孫ではある。ペルー、ボリビア、グァテマラでは死亡者が出ていない。アルゼンチンはヨーロッパ並みの白人国だ。

人種的理由などあるまい、と言い切ってしまいたいが、中南米での致死率の高さが、偶然とは言え、やはり気になる。発症元とされ、死亡者数が最も多いメキシコは、中南米では先住民人口が最大である。

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2009年6月 4日 (木)

OASキューバ除名の終焉

陰の主役としてのキューバの存在をクローズアップさせた4月の第五回米州サミットから2ヵ月。ホンジュラスのサンペドロスーラで開催された第39OAS(米州機構)外相会議で、同国セラヤ大統領が準備したキューバ除名措置撤廃案の決議が行われた。同大統領は、「東西冷戦がこの日、この地で終わった。友愛と寛容の時代が始まった」とのコメントを発している。米国のヒラリー・クリントン国務長官は、時間的制約で決議案に投票できないまま次の訪問国、エジプトに向っていた。彼女はキューバのOAS復帰には「民主化と政治犯釈放が前提」、と譲らなかったので、満場一致を原則とする決議の行方が案じられていたが、結果的に押し切られた格好だ。

彼女の当初の姿勢には、1960年代から80年代にかけて、中南米は軍政諸国が大半を占め、民主主義とは対極にあっても、人権侵害で国際的な非難を浴びても、どこもOASから追放されなかったではないか、との、他メンバー諸国からの反論があった。オバマ政権下の米国は、この自己矛盾に気付いたのだろう。会議に先駆けて、ベネズエラのチャベス大統領がキューバとの連帯強化のためのOAS脱退を仄めかし、エクアドルのコレア大統領はキューバを除外した米州の組織はあり得ない、としてOASの終焉に言及していた。OAS外相会議直前には、エルサルバドルのフネス大統領が就任式直後にキューバとの国交回復を実現し、米州諸国で断交しているのは米国だけとなっていた。

19483月、ボゴタで開催された第9回汎米会議で生まれたOAS。憲章採択前に、コロンビア自由党首、ガイタンが暗殺された(政治的な背景は無かった、とされる。私のホームページ「ラ米のポピュリズム」の「第二次大戦後のポプリスタ」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C9_1.htm#5を参照)。この時ハバナ大学の学生だったカストロがコロンビアに来ており、ガイタンの大衆動員力に驚き、悲惨な最期に強い衝撃を受けたことが知られる。その後、コロンビアは「ビオレンシア(暴力の時代)」に突入し、15年間で20万人と言われる犠牲者を出した。これが平定された後の反乱勢力の生き残りが、それより45年も過ぎた現在なお活動するゲリラ、FARCを結成している。

19621月、ウルグアイのプンタデルエステで開催された第8OAS外相会議は、キューバ除名を決議した。前614月に亡命キューバ人が引き起こした「ピッグス湾事件」を、米国のCIAと基地を供与した軍政下のグァテマラ、及びソモサ独裁下のニカラグアが支援したのは、有名な事実だ。米国の国務省は事件直前、キューバがソ連衛星圏にある、と決め付けていた。事件(革命政権転覆を図るキューバ本土への武力侵攻)は失敗した。カストロが社会主義宣言をしたのは、この事件の後だ。東西冷戦の最中である。米国の足元、米州は、自由主義の橋頭堡であらねばならない。共産主義国家が米州にあってはならない、との論理が、自らが追い詰めた点に眼をつぶり、キューバ追放に動いた。オバマ大統領が尊敬するケネディの政権下だった。

キューバ除名後の196210月、核戦争に繋がりかねないとして世界を震撼させた「ミサイル危機」が起きた。これは米ソの交渉で解決したが、翌年になるとカストロが訪ソし、ソ連との長期貿易協定などを通じて対ソ関係が強化された。一方で、中南米各地で、左翼ゲリラが活発化する。19648月、カラカスで開催された第9OAS外相会議が対キューバ経済制裁を決議、キューバは米州内孤立時代に入り込んだ(メキシコのみが国交を維持した)。

キューバの孤立時代は、実は以外に短かった。1970年、アジェンデ社会主義政権がチリに発足して、先ずチリが、その2年前にベラスコ軍政が成立していたペルーが72年に、一時的に民政移管を見ていたペロン党政権下のアルゼンチンが73年に、パナマとベネズエラが74年にキューバと復交を果たした。そしてコロンビアも復交に踏み切って直ぐの757月、第16OAS外相会議は対キューバ制裁終了を決議した。ただ、OAS復帰は認めていない。米国も米企業第三国の子会社による対キューバ取引を認め、771月にカーター政権が発足してから、国交再開こそ無くとも利益代表部の相互設置、漁業協定締結、在米キューバ人による家族送金承認、そして里帰り承認、と雪解けが一気に進んだ。しかしこれも長くは続かず、特に80年代末からの東欧民主化、ソ連崩壊の流れの中でキューバが経済的に困窮の極みに立たされた時、米国は制裁を強化し、80年代の対外債務危機を経験した他中南米諸国は地域経済統合に忙しくなり、OASは何もできなかった。

二十一世紀に入り、中南米に左派、中道左派政権が続々と誕生する。右派政権を含め全体として米国依存度を意識して低める動きが進んだ。キューバは中南米諸国との関係強化には積極的に取り組んできたが、米国が主導するOASには距離を置いた。正確には、OASがキューバを疎外した、といった方が良い。1994年からの米州サミットにも呼ばれない。

OASがキューバの復帰を認めた。次は、キューバが復帰する意志の有無が問題となる。復帰すれば、OASの中で対米折衝も可能。となる。今回の決議に米国が賛成したのは、キューバ自身、復帰しないから、との読みがあるから、という意地の悪い見方もある。注目したい。

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