ホンジュラスの政変
大統領が早朝軍に急襲され拘束され、逮捕された閣僚が出て、そして大統領職は国会議長が任期残を代行する、となると、これはクーデターとみてよい。ホンジュラスで6月28日に実際に起きた。最高裁判所は、これを「民主主義擁護に必要な行動」と認めた。議会は「辞表」を受理し、憲法に則りミチェレティ国会議長が大統領を代行する、と発表し、実際に就任式も行い、主要閣僚の人事を開始し、また二日間の外出禁止令まで出した。当のセラヤ大統領は、外電によれば、先ず軍用機でコスタリカに連行され放逐された。ここで同国のアリアス大統領と並んで記者会見し、アリアスが中米のクーデターは消滅したと信じ込んでいた、と語り、セラヤは、自らはまだ大統領であり、帰国し、任期一杯その職を全うする、と訴えている。
僅か4日前の6月24日、ベネズエラのマラカイ市でALBA(米州人民ボリーバル代替統合機構)首脳会議が行われたが、ホンジュラスのセラヤ大統領が欠席した。ALBAのAが従来のAlternativa、即ち米国のイニシアティヴによるFTAA(米州自由貿易地域構想)へのアンチテーゼである「代替」から、Alianza、即ち「同盟」に変更し、統合体としての組織強化を協議し、且つ、エクアドルが加盟する重要な会合だっただけに、眼を引いた。この国では軍、司法、立法府での反セラヤの動きが急を告げていた。彼自身はクーデターが近い、と訴え、チャベス大統領などが、セラヤ連帯を繰り返し発信してきた。米国のオバマ大統領もクリントン国務長官も、大統領拘束を非難した。国務省によれば、米国も原状復帰を呼びかけている。OASが緊急理事会を招集、速やか、安全、且つ無条件のセラヤ帰国を要求する、とする決議を行った。国連も大統領拘束を非難し、代表制民主主義への復帰を促した。
6月29日、SICA(中米統合機構)首脳会議がマナグアに招集された。ALBAの成員国ニカラグアのオルテガ大統領は、これにALBA諸国首脳を招待した。ホンジュラスもSICAに属しALBAにも加盟している。既にチャベスとエクアドルのコレア両大統領はマナグア入りし、セラヤは、アリアス共々、マナグアに向った。アリアスもリオグループ諸国首脳の出席を呼びかけた由で、かなり大規模な会議になるようだ。果たして、セラヤ復帰となるのか、注視したい。
6月28日、国民投票が予定されていた。本年11月に予定されている総選挙(大統領選を含む)とともに制憲議会選挙を行うことへの賛否を問うものだ。かかる国民投票の準備に駆り出される軍の参謀総長がこれを拒否したことで、大統領が解任した。すると最高裁がこれを違憲とし、参謀総長解任は不当、と断定した。いずれもこの国民投票自体を非合法、としていた。議会は、セラヤが憲法で禁止されている再選を狙っている、として、彼を弾劾した。この動きを捉え、軍が動いたもので、国民投票は結局行われなかった。
ホンジュラス。中米五ヵ国(ホンジュラス、グァテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ)で今も「中米の父」と讃えられるフランシスコ・モラサン(1792-1842)を出した国である。それにパナマを加えた中米六ヵ国では、人口が779万人、グァテマラに次ぐ規模だ(The World FactBookによる2009年見通し)。GDP(国内総生産)でみると、イベロアメリカ(旧スペイン・ポルトガル植民地)十九ヵ国で中十三位の人口だが、2008年見通しでは十七位、ニカラグア、ボリビアに次ぐ域内最貧国である。人口の90%がメスティソで、7%が先住民とされる。平均寿命は69歳で、先住民比率が55%と最も高いボリビアに次いで短い。識字率は、そのボリビアよりも低い。
世界恐慌の影響で、1930年代にはイベロアメリカ諸国の殆どで社会が騒然としていた。ホンジュラスでも同様だったが、グァテマラ、エルサルバドル、ニカラグアで起きたようなクーデターは回避できた。その代り、二十世早々からの二大政党の一つ国民党で、1923年から最高権力を行使してきた将軍、ティブルシオ・カリアス(1876-1969)による16年間連続の長期政権が敷かれた。その後も数年間、彼の影響力は続いた、といわれる。
さらに数年経過して召集された制憲議会が1957年11月、自由党のラモン・ビイェダ(1909-71)を大統領に指名した。国民の直接投票によらず誕生したこの政権は、1963年10月の大統領選を目前に、ロペス・アレヤーノ将軍(1921-96)による軍事クーデターで崩壊、一時的断続はあったが、それより75年4月まで、アレヤーノ軍政時代にあった。69年7月には隣国エルサルバドルとの不名誉な「サッカー戦争」(私のホームページ「ラ米の域内・対外戦争」の「二十世紀国家間戦争」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C8_1.htm#3参照)を惹き起こしている。彼の後も軍政が続いた。
1982年1月の民政移管に先立つ1980年4月、制憲議会選挙が行われた。この最大議席を得たのは、自由党である。現行憲法は、ここで決議された。任期が四年の大統領、副大統領など行政府で一度要職に就くと、二度と大統領選にも議会選にも出馬できないことがうたわれている。カリアスやアレヤーノのような長期政権を回避したい、との思いがあろう。セラヤが狙ったのがこの改正にあり、ひいては自らの再選を目指したことは間違いない。