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2009年4月 9日 (木)

フジモリ有罪判決

ペルーのフジモリ元大統領は、権力濫用罪で禁固6年の刑に服している。その彼に、47日、「コリーナ」と称した特殊部隊による1991年と92年、計25名の民間人虐殺事件への関与を理由に、最高裁判所が25年の禁固刑を言い渡した。最高裁判決とは言え大統領経験者には控訴権が与えられており、これで最後ではないが、このニュースには違和感を禁じえなかった。

19906月の大統領選決選投票で、フジモリが過半数の得票で、世界的な著名作家バルガス・リョサを退け選出された時、ペルーを日本人移民の子を大統領に選ぶほどの国だ、ともてはやした論調を眼にした記憶がある。924月、フジモリ大統領が憲法停止、議会閉鎖を強行(アウト・ゴルペ、即ち大統領自らのクーデターと呼ぶ)した時、欧米のメディアは反動政治だとして、一斉にフジモリ攻撃の論陣を張った。ところがテレビに映る抑圧された人たちが富裕層で、抑圧側のフジモリ支持層がいかにも貧困層だったことに違和感を覚えたものだ。

フジモリが前任者のアラン・ガルシア(現大統領。第一次政権誕生の際には弱冠36歳、若き指導者を選び出したペルー、と讃える論調を見た記憶がある)から政権を引き継いだ時、この国のインフレは年率6,0007,000%で、対外債務返済に関る限度通告による国際金融界からの信任喪失、賃金引き上げと価格統制による物不足、と、深刻な経済不況にあった。1980年の民政復帰後に、センデロ・ルミノソ(以下センデロ)とMRTA(トゥパク・アマルー革命運動)という左翼ゲリラ組織が活動していたが、80年からのベラウンデ・テリー、ガルシア両政権には制圧できなかった(私のホームページ「ラ米の軍部-軍政時代を経て」のゲリラ戦争http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C10_1.htm#4参照)。

つまり、フジモリには破局の経済立て直しとゲリラ制圧が喫緊の政策課題だった。いきなり打った手が、価格統制撤廃、補助金カット、関税切り下げ、投資優遇など、労組が激しく抵抗した反庶民的政策実行だった。丁度隣国チリではピノチェト軍政が終り民政復帰したばかりだったが、そのピノチェトの政策に似ていた。官民労組によるストが頻発し、国軍や警察の幹部更迭とゲリラの攻勢により国内状況も混沌としてきた。

19917月、センデロにより我がJICA技術員3名が殺害されている。翌月議会で、フジモリ就任後1年間で、左翼ゲリラによるテロ活動で3千人以上が犠牲になった、との報告もあった。今回のフジモリ裁判の罪状とされた「コリーナ」による「バリオスアルトス事件」(15人の民間人虐殺)は、同年11月に起きた。センデロ及びMRTA制圧を側面から支援する特殊任務に当たる軍及び警察の秘密組織として、この僅か3ヶ月前に発足したばかりだった、とされる。事件後、議会に事件調査委員会が立ち上げられた。

19924月のアウト・ゴルペは、経済支援の約束を取り付ける訪日から帰国して間もない時期のことだ。「バリオスアルトス事件」調査委員会の活動も、従って停止された。米州機構(OAS)はアウト・ゴルペ非難決議を出している。これより対ゲリラ制圧作戦が激しく展開され、MRTAは最高指導者が6月に捕縛され弱体化した。そして翌7月、やはり今回の罪状となった「コリーナ」による10人の連行、殺害事件が起きる(「ラ・カントゥータ事件」)。センデロの弱体化は、最高指導者グスマンが捕縛された9月以降のことだ。「コリーナ」の解散もグスマン捕縛後、ほどない時期、と言われる。

199211月、OAS監視団の見守る中で制憲議会選挙が行われ、既存政治勢力の多くが棄権したこともあって、フジモリ派が過半数を占める結果となった。しかし、OAS監視団は、選挙自体は公正だったと発表し、結果の正統性を承認する形になった。翌931月、フジモリがアウト・ゴルペ直後に約束した統一地方選挙も行われた。民主化を歓迎した国際社会は、ペルーの対外債務救済に動くまでになった。同年9月、制憲議会は過去禁止されていた大統領の連続再選を認める改正憲法草案を可決する。経済状況は93年以降、眼に見えて好転しインフレも収束した。そして、954月の大統領選では、フジモリは64%の得票率で国連事務総長を直前まで務めていた著名人、デクエヤルに圧勝した。治安の改善も進んだ。この時期、国内外で彼に対する信任度は非常に高かったと言える。その後、1941年以来のどの政権も解決できなかったエクアドルとの国境問題も、彼の指導力で解決できた。

今回の裁判を見る場合、1995年の第二回目の大統領就任に際して出した「恩赦法」は注目しておきたい。935月、退役将軍の暴露証言によって「カントゥータ事件」に参加したかどで収監されていた「コリーナ」の隊員が、この時釈放された。恩赦法は、当時検察が動き出していた「アルトスバリオス事件」も対象になった。つまり両事件がうやむやにされた。

200011月、フジモリ辞任で恩赦法が無効となった。検察が両事件の追及を再開した。翌013月、検事総長が議会でフジモリを共犯者と非難した。また「コリーナ」の構成員を逮捕し、事件についての証言も得ているようだ。検察の主張は、大統領の関与(直接にせよ間接にせよ)が無ければ起きえない事件だった、としてきた。今回の最高裁判決は、検察側主張を認めたものだ。

だがそれにしても、今回最高裁判決にあるように、大統領が、かかる秘密組織に、間接的にせよ、一々指示を出していたのだろうか。本人は証拠が無いではないか、と叫んでいる。

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