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2009年4月29日 (水)

コレアの挑戦(エクアドル)

2009年4月25日、エクアドルで行われた総選挙でコレア大統領が過半数の得票を得て新憲法下の初代大統領に決まった。盟友のチャベス・ベネズエラ、モラレス・ボリビア両大統領から電話で祝辞が寄せられたのは勿論、米国からも祝福のメッセージが送られてきた。ただ4月29日現在、第二位に付けたグティエレス元大統領は、選挙に不正があった、として、敗北宣言は見合わせており、また同時に行われた議会選挙での与党「国民同盟」(Alianza PAISPatria Altiva i Soberanaの略称がPAISなので、直訳は「至高の祖国同盟」。以下PAIS)の議席数も確定していないので、もう少し推移を見守りたい。

20089月28日の国民投票で63%の賛成を得て公布された新憲法は、1830年のエクアドル建国後178年間で20番目の憲法、と言われる。それまでの憲法は1998年に公布された。細かく言えば、建国67年間で11、それから111年間で9の憲法が出された。こんなに何度も憲法を変える国は、中南米には珍しい。アルゼンチンの1853年憲法は、軍政時代も生き残り、まだ効力を持つ。コロンビアは1991年に新憲法が公布されたが、その前の1886年憲法は107年間もった。メキシコ革命で作られた1917年憲法は近年修正が繰り返されたが、今日なお有効だ。こんなに長期間ではなくとも、中南米の他の国で短期間に改憲を繰り返す国は殆ど無い。

2008年憲法は、何が目新しいのだろうか。義務教育を12年間とした。国民の生活権を拡大するため、専業主婦の年金受給権を明記した。国家としての任務に環境保全を加えた。経済活動では、国家が公共の利益を理由に介入することを記した。だが、最も重要な項目は大統領連続再任の解禁であろう。今回選挙を制したコレアは、4年後の2013年にも再選される可能性が高い。彼の政権は、最長で10年半に及ぶことになる。ラ米では連続再選の規制を外したベネズエラには及ばぬとしても、一期5年で連続再選可能なボリビアを抜く。

歴史的に個人独裁を経験した中南米諸国には、大統領の連続再任を禁じる国が多い。代表格は35年間のディアス独裁(実質在任1876-1911年)を経験したメキシコで、ここは一個人が一度大統領になれば、再び大統領にはなれない。同じく35年間のストロエスネル(在任1954-1989年)独裁を許したパラグアイ、独裁が建国後一世紀に亘り政治文化となったグァテマラもそうだ。

ところが、エクアドルはかかる伝統が弱いのに、1972年以降、非連続再選すらなくなった。軍政時代を終えた79年から2006年までの27年間、選挙で選ばれた大統領はコレアを除いて7人いる。一人は航空機事故で死亡、一人は精神的欠陥による統治能力の不足を理由に議会に罷免され、今回コレアと戦ったグティエレスを含む二人は国民の退陣要求に屈して、任期が全うできなかった。要するに政治不安が続いてきた。

軍政時代が終わってからだけではなく、軍政時代に入った1963年以前も、30年間ほどは、有名なポプリスタのベラスコ・イバラ(私のホームページから「ラ米のポピュリズムhttp://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI9.htm」参照願いたい)を軸に、一時期を除き、政治不安の連続だった。

軍政時代が終わってからは、対外債務にも苦しみ、さらには十九世紀から続くペルーとの国境問題に引き続き悩まされた。前者は94年にブレイディ構想(元本削減)に基づき一応の解決をみたし、後者も98年8月に発足したマウワ政権により、99年5月には国境画定条約に至って決着はついた。ところが、2000年1月、時のマウワ政権はハイパーインフレに耐えかね、通貨をそれまで固有のスクレから米㌦に変更することを宣言した。ほどなく、先住民による国会占拠、またグティエレス大佐ら若手将校による反乱で、マウワ大統領が、そして02年の大統領選を制したグティエレスもまた、退陣に追い込まれた。

コレアは、200611月、総選挙で自らの選挙母体であるPAISを基盤に大統領選を制したが、PAIS自体はこの時の議会選には出ず、彼のイニシアティヴにより20074月に行われた制憲議会選挙で130議席中80議席を獲得した。国会は06年の選挙で違反行為を理由に資格を剥奪された議員が57人も出たことで、休会状態に追い込まれ、結果的に立法は制憲議会が代行する、という、非常に珍しい状況を来たした。つまり、彼は過半数の与党を背景に、安定政権を引っ張ってきた格好だ。

コレアは、21世紀の社会主義を奉じており、本年最も早くキューバ訪問を行ったのも彼で、ラ米左派政権の一翼を担っているのは間違いない。昨年3月のコロンビア軍による在エクアドルFARC基地越境攻撃に反発し、コロンビアとの外交関係は中断している。しかし、チャベスが呼びかけるALBA(米州ボリーバル代替統合構想)には入っていない。だから先日の米州サミット前にクマナで行われた首脳会議にも出なかった。米国が麻薬対策上使用しているマンタ基地の使用期限延長はしない、と表明こそしているが、麻薬問題に関る協力姿勢は米国から高い評価を得ている。対米FTA交渉は中断したままだし、固有通貨の復活を口にしてはいるが、反米的な言動はさほど目立たない。オバマ政権下の米国とは特に、友好関係を保とうとしているようだ。

連続再選というキイワードを盛り込んだ新憲法、事実上の議会閉鎖、という強権的手法は、確かにチャベスやモラレスも使ったが、社会主義とは関係ない。1992年、ペルーのフジモリも使った。まだ46歳と若いコレアが挑戦するのは、表面的には21世紀社会主義を追求する国家建設だろうが、現実は政治不安続きのエクアドルに政治的安定を打ち立てること、に思えてならない。

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2009年4月17日 (金)

第五回米州サミットとキューバ

417日にトリニダード・トバゴで開催される第五回米州サミットには、隠れたテーマがある。言うまでも無く米国によるキューバ制裁の解除問題である。

キューバを除く米州34ヵ国首脳が一同に会する米州サミット。199412月に、当時のクリントン米大統領の提唱によって始まった。FTAA(米州自由貿易圏)の構築を最大のテーマとした。同年1月、NAFTA(北米自由貿易協定)が発効し、またほどない翌951月にはメルコスル(南米南部共同市場)が発足しようとしており、MCCA(中米共同市場)は前年組織化を終えていたし、CAN(アンデス共同体)の組織化も近かった(私のホームページ中の「ラ米の地域統合http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI11.htm」を参照)。FTAAに参加し得ない共産主義国キューバは、当然が如く排除されていた。

第一回目は米国のマイアミで開催され、その後チリのサンティアゴ(98年)、カナダのケベック(2001年)、メキシコのモンテレイ(2004年)、アルゼンチンのマルデルプラタ(2005年)へと会場が移った。この内のモンテレイ会議は、元々2005年をもってFTAAを発足させる、という当初趣旨が一向に現実化しない状況下、臨時に開かれたもので、マルデルプラタの第四回サミットでは、特にメルコスルとベネズエラから「反市場原理主義」が強く打ち出され、FTAAは事実上潰えた格好だ。

第五回サミットのテーマは、「国民の繁栄とエネルギーの確保、及び環境保護による将来への保障」となっている。ここに、何故キューバが参加できないか。

サミットに先立ち、ベネズエラのクマナ市でALBA(米州ボリーバル代替統合構想)首脳会議が開催され、チャベス(ベネズエラ)、ラウル・カストロ(キューバ)、モラレス(ボリビア)、オルテガ(ニカラグア)及びセラヤ(ホンジュラス)に、非加盟国からルゴ(パラグアイ)の6大統領が集まった。チャベス大統領が代表して、米国は制裁解除に踏み切るべきだ、キューバを米州サミットに入れるべきだ、と叫んだ。ラ米の旧スペイン、ポルトガル植民地諸国は十九ヵ国。この内の6ヵ国だが、小国ばかりだ、大したことはない、と言うなら、サミットに先立ち、域内大国のブラジル、メキシコ及びアルゼンチンの大統領も共同声明の形で、同じように制裁解除を、と呼びかけている実態も有る。それどころではない。米国の対キューバ経済制裁は、毎年国連総会で非難決議を浴びているのだ。

413日、オバマ大統領はキューバ系アメリカ人のキューバへの里帰り自由化(回数制限を解除)と、米企業による通信事業参入の認可を発表した。その10日前、米国の民主党下院議員7名がハバナを訪問し、ラウル・カストロ議長との会談だけでなく、病気の兄、フィデル見舞いまでやった。その議員団が、米人旅行規制は解除すべき、米国による半世紀近い制裁はまるで効果が無かった、と言っており、オバマ大統領が大きな政策変更に踏み切るか、多少なりとも期待が広がったものだ。だが、キューバ系米人に限った措置に留まった。フィデル・カストロは、直ちに、一般米人にもキューバ渡航を解禁して貰いたかった、とのコメントを出している。

オバマ大統領の措置は、ちょっと見た目には如何にもケチケチしている。経済制裁解除こそが、採るべき道、であろう。だがこれには米国サイドの法的手続き(45年も続くキューバ資産令、ブッシュ政権時代のテロ国家指定、或いは、1992年のトリチェリ法や06年のヘルムズ・バートン法もある)が必要で、簡単にはいかない。キューバ国民に情報が伝わり易くなり、自由と民主主義に資する、といった理屈はどうあれ、通信事業に限ってではあっても、米企業の参入を認めるのは、大英断だろう。在米キューバ人の里帰りだって、ブッシュ政権時代は3年に一度しか認められなかった。

チャベス大統領らも、その辺の事情はよく分かっていよう。彼が叫んだもう一つの、キューバの米州社会への復帰を米国に促す、ということの方が、実際の隠れたテーマに思える。エルサルバドルの次期政権は間違いなく対キューバ復交を実現しようから、米国は米州でキューバを疎外する唯一の国、ということになる。その米国の意向で米州サミットからキューバが外されている現実の不自然さに、民主主義を何よりも尊ぶオバマ大統領が、果たして耐えられようか。

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2009年4月 9日 (木)

フジモリ有罪判決

ペルーのフジモリ元大統領は、権力濫用罪で禁固6年の刑に服している。その彼に、47日、「コリーナ」と称した特殊部隊による1991年と92年、計25名の民間人虐殺事件への関与を理由に、最高裁判所が25年の禁固刑を言い渡した。最高裁判決とは言え大統領経験者には控訴権が与えられており、これで最後ではないが、このニュースには違和感を禁じえなかった。

19906月の大統領選決選投票で、フジモリが過半数の得票で、世界的な著名作家バルガス・リョサを退け選出された時、ペルーを日本人移民の子を大統領に選ぶほどの国だ、ともてはやした論調を眼にした記憶がある。924月、フジモリ大統領が憲法停止、議会閉鎖を強行(アウト・ゴルペ、即ち大統領自らのクーデターと呼ぶ)した時、欧米のメディアは反動政治だとして、一斉にフジモリ攻撃の論陣を張った。ところがテレビに映る抑圧された人たちが富裕層で、抑圧側のフジモリ支持層がいかにも貧困層だったことに違和感を覚えたものだ。

フジモリが前任者のアラン・ガルシア(現大統領。第一次政権誕生の際には弱冠36歳、若き指導者を選び出したペルー、と讃える論調を見た記憶がある)から政権を引き継いだ時、この国のインフレは年率6,0007,000%で、対外債務返済に関る限度通告による国際金融界からの信任喪失、賃金引き上げと価格統制による物不足、と、深刻な経済不況にあった。1980年の民政復帰後に、センデロ・ルミノソ(以下センデロ)とMRTA(トゥパク・アマルー革命運動)という左翼ゲリラ組織が活動していたが、80年からのベラウンデ・テリー、ガルシア両政権には制圧できなかった(私のホームページ「ラ米の軍部-軍政時代を経て」のゲリラ戦争http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C10_1.htm#4参照)。

つまり、フジモリには破局の経済立て直しとゲリラ制圧が喫緊の政策課題だった。いきなり打った手が、価格統制撤廃、補助金カット、関税切り下げ、投資優遇など、労組が激しく抵抗した反庶民的政策実行だった。丁度隣国チリではピノチェト軍政が終り民政復帰したばかりだったが、そのピノチェトの政策に似ていた。官民労組によるストが頻発し、国軍や警察の幹部更迭とゲリラの攻勢により国内状況も混沌としてきた。

19917月、センデロにより我がJICA技術員3名が殺害されている。翌月議会で、フジモリ就任後1年間で、左翼ゲリラによるテロ活動で3千人以上が犠牲になった、との報告もあった。今回のフジモリ裁判の罪状とされた「コリーナ」による「バリオスアルトス事件」(15人の民間人虐殺)は、同年11月に起きた。センデロ及びMRTA制圧を側面から支援する特殊任務に当たる軍及び警察の秘密組織として、この僅か3ヶ月前に発足したばかりだった、とされる。事件後、議会に事件調査委員会が立ち上げられた。

19924月のアウト・ゴルペは、経済支援の約束を取り付ける訪日から帰国して間もない時期のことだ。「バリオスアルトス事件」調査委員会の活動も、従って停止された。米州機構(OAS)はアウト・ゴルペ非難決議を出している。これより対ゲリラ制圧作戦が激しく展開され、MRTAは最高指導者が6月に捕縛され弱体化した。そして翌7月、やはり今回の罪状となった「コリーナ」による10人の連行、殺害事件が起きる(「ラ・カントゥータ事件」)。センデロの弱体化は、最高指導者グスマンが捕縛された9月以降のことだ。「コリーナ」の解散もグスマン捕縛後、ほどない時期、と言われる。

199211月、OAS監視団の見守る中で制憲議会選挙が行われ、既存政治勢力の多くが棄権したこともあって、フジモリ派が過半数を占める結果となった。しかし、OAS監視団は、選挙自体は公正だったと発表し、結果の正統性を承認する形になった。翌931月、フジモリがアウト・ゴルペ直後に約束した統一地方選挙も行われた。民主化を歓迎した国際社会は、ペルーの対外債務救済に動くまでになった。同年9月、制憲議会は過去禁止されていた大統領の連続再選を認める改正憲法草案を可決する。経済状況は93年以降、眼に見えて好転しインフレも収束した。そして、954月の大統領選では、フジモリは64%の得票率で国連事務総長を直前まで務めていた著名人、デクエヤルに圧勝した。治安の改善も進んだ。この時期、国内外で彼に対する信任度は非常に高かったと言える。その後、1941年以来のどの政権も解決できなかったエクアドルとの国境問題も、彼の指導力で解決できた。

今回の裁判を見る場合、1995年の第二回目の大統領就任に際して出した「恩赦法」は注目しておきたい。935月、退役将軍の暴露証言によって「カントゥータ事件」に参加したかどで収監されていた「コリーナ」の隊員が、この時釈放された。恩赦法は、当時検察が動き出していた「アルトスバリオス事件」も対象になった。つまり両事件がうやむやにされた。

200011月、フジモリ辞任で恩赦法が無効となった。検察が両事件の追及を再開した。翌013月、検事総長が議会でフジモリを共犯者と非難した。また「コリーナ」の構成員を逮捕し、事件についての証言も得ているようだ。検察の主張は、大統領の関与(直接にせよ間接にせよ)が無ければ起きえない事件だった、としてきた。今回の最高裁判決は、検察側主張を認めたものだ。

だがそれにしても、今回最高裁判決にあるように、大統領が、かかる秘密組織に、間接的にせよ、一々指示を出していたのだろうか。本人は証拠が無いではないか、と叫んでいる。

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