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2009年3月17日 (火)

エルサルバドル大統領選

本年早々このブログで「2009年のラテンアメリカ選挙」として採り上げた1つ、エルサルバドル大統領選が315日、予定通り行われ、FMLNから出馬したフネス氏が51%の得票で、現与党ARENAの候補、アビラ氏を押えて当選した。だが、1月に行われた議会選挙の結果、FMLNの国会議席数は35議席、増えてARENAから第一党の座を奪回したが全82議席からすれば42%だ。他に議席を持つ国民和解党、キリスト教民主党いずれも保守政党なので、政策面で大きく左傾化すれば少数与党になるのは確実だ。

フネス氏は選挙期間中、ブラジルのルラ大統領を持ち上げ、ベネズエラのチャベス大統領との連携については否定し続けた。夫人がブラジル人でルラ支持者ということもあろうが、犠牲者7万人を出した1980年代内戦の主役を演じた左翼ゲリラ、としてのイメージ払拭が国内的にも対米関係上も必要、との判断からだろう。FMLN92年に内戦が終り政党化してから、国会議席数では89年より政権を担ってきたARENAと第一、二位を得てきた。大統領選は94年から候補者を出し続けてきたが、政権は遠かった。FMLN政権になると国が共産化し、対米好関係が崩壊し、経済は破綻する、と言われ続けた。

早々と米・中米・ドミニカ共和国自由貿易(CAFTA-DR)の遵守と2001年よりの米㌦を唯一の通貨とする政策の続行、など、対米好関係維持を宣言しており、またサカ現政権からの引継ぎも円滑に行う旨を約束した。

アグスティン・ファラブンド・マルティ(1893-1932)は1932年1月の農民蜂起を率い、当時のマルティネス・エルナンデス独裁政権(1931-44)により参加者の内1万人とも3万人ともいわれる犠牲者を出した、いわゆる「Matanza(虐殺)」事件の末に逮捕、処刑された労働運動指導者だ。思想的に共産主義者であり、それまでに何度も逮捕され、国外追放された経験を持つ。グァテマラ在住時代に中米社会党の設立に関り、その書記長にもなった。二歳年下の民族主義者、セサル・サンディーノ(1895-1934)が率いるニカラグアの反米ゲリラにも参加したが、思想の違いから脱退し帰国している。

それから40年近く経った。彼の名前は、当時のエルサルバドル共産党指導者の一人が脱党して1970年結成した左翼ゲリラ、FPL(人民解放軍。正式名称は、Fuerzas Populares de Liberación “Farabundo Martí”)の枕に着けられた。ニカラグアではサンディーノの名前を冠したFSLNFrente Sandinista para la Liberaión Nacional)がその8年前よりゲリラ活動に入っていた。サンディーノ自身は反共だったが、このゲリラは容共路線を採る。

19797月、ニカラグア革命が成立した(私のホームページ「ラ米の革命」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C7_1.htm#4参照)。FSLNを中心とした革命政権が進めようとしたのは社会主義建設ではない。だが、キューバと国交を回復し、翌80年の革命一周年式典に、中米では初めてカストロを招待している。そして同年8010月、FPLを含むエルサルバドル国内ゲリラ組織の統合によってFMLNが創設されたが、その組織間交渉はハバナで行われている。正真正銘の社会主義革命を目指すゲリラとして発足、翌811月、武力蜂起した。これを契機に、米国がニカラグア革命政府に約束していた援助を凍結した。

ほどなく米国にレーガン政権が発足した。いわゆる「エルサルバドル白書」が出され、キューバからのFMLN支援がニカラグア経由で行われる、との仮説が歩き始めた。エルサルバドル政府に対する支援が強化されたのは当然として、ホンジュラスを拠点に活動を続けるニカラグア反革命組織(コントラ)の支援をも始めている。米国にとっては民主党政権だろうが共和党だろうが、FMLNの印象は大変に悪い。

19921月、当時のクリスティアニ政権(1989-94)とFMLNがメキシコでチャプルテペック和平協定を締結し、武装解除の上政党化した。ニカラグアのコントラはその2年前に終っていた。革命政権を11年間率いたFSLNのオルテガ氏が政権に復帰したのは20071月だが、それから1年半でエルサルバドル史上初めての左派政党、FMLNが政権を担うことに奇縁を感じる。奇縁といえば、オルテガ政権発足から1年後、グァテマラでもUNE(希望国民連合)のコロン氏が政権を発足させている。これにはちょっと説明を要する。

1982年、グァテマラの左翼ゲリラも統合され、URNG(グァテマラ国民革命連合)が同国での内戦を展開し、いわゆる「中米危機」に突入していた。これが武装解除し政党化したのは96年、と遅れた。小党、という点がFMLNFSLNと異なる。ただその前身MR-131113日革命運動)が結成されるもとになった6011月の軍内叛乱を起こした将校は、546月に追放されたアルベンスのグループに属していた。アルベンス思想を掲げるコロンは、その意味でURNGと無関係ではない。

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2009年3月 9日 (月)

キューバ:後戻りか変化か

日本の新聞で、最近久し振りにキューバのニュースが大きく採り上げられた。ラヘ官房長官とペレス・ロケ外相の更迭と、両人の共産党及び国家評議会ポスト辞任である。ネットを探すと、米国のメディアなどは1992年のアルダナ、99年のロバイナの解任劇と早速比べてみている。要するに、フィデル・カストロが元気な頃、カストロ後の指導者として取り沙汰されていた人たちは、結局失脚する、というものだ。私も、同じようなことがあったな、と思ってネットで調べたのだから、アプローチは似たようなものだ。

1992年、ハバナに最後に駐在していた時の私が、失脚前のカルロス・アルダナについて知っていたのは、共産党外交委員長で、党の思想部門を統括する大変な実力者で、外国のメディアは何とか会見したがっているが先ず会えない、といわれていたことくらいだ。しかし、ラヘも既にアルダナ同様共産党政治局員の一人で、しかも国家評議会副議長兼閣僚評議会副議長にもなっていた。立法、行政双方の公職に就けば、テレビにも出る。国民の中で知名度も上がる。外国の政官界及び財界との交流の場にも出る。ここがアルダナと違うところだ。頭脳明晰で博識、胆力に優れ人当たりも良い。ソ連解体でキューバが最悪の経済・社会危機にあった年で、連続再選を狙うブッシュ父がクリントンとの大統領選直前に、キューバ制裁強化のための「トリチェリ法」に署名した。

アルダナが失脚した時、ラヘはまだ40歳を過ぎたばかりで、これでカストロ後の指導者に決まったようなもの、という声も結構聞こえたことを憶えている。最悪の経済危機乗り切りのため、国民の個人営業認可や外貨保有解禁、観光振興や外資導入積極化など、キューバの経済開放政策が相次いで打ち出された。ラヘがかかる推進派の中心人物だったことはよく知られる。

ロベルト・ロバイナは932月、35歳で外相になった。前任者が長く国連大使を務め、人民権力全国議会(国会)議長に就いた56歳のベテラン外交官だったアラルコン、さらにその前のマルミエルカは64歳になるまで16年間に亘って外相を務めた。社会主義国の常として、この国でも外相とか主要閣僚の在任期間は大変に長い。だから初任年齢は一般的に若い。それにしてもロバイナへの若返りは、驚きを持って迎えられた。フィデルが「ロベルティーコ(ロベルトの愛称)」と呼んで可愛がっていたことは周知だったが、テレビにもよく出るし、よく喋るし、話も分かり易い。国内的人気を得た。ポスト・カストロということでは、ラヘの競争相手に急浮上した。この二人に共通するのは、その頃は次世代の指導部への登竜門のような「青年共産主義者連合(UJC)」議長の経験者、という点だ。ロバイナは、だが失脚した。

ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がキューバを訪問したのは、ロバイナ失脚の約1年前だ。各地でミサを行い、外国のキューバ制裁を断じ、またキューバへの民主主義回帰を促した。この後グァテマラとドミニカ共和国がキューバと復交、中南米でキューバと外交関係を持たない国はエルサルバドルだけ、となった。米国の制裁解除は時間の問題、と囁かれた時期だ。ベネズエラでは、チャベスが大統領選を制した。そんな年に、ロバイナ就任時年齢よりもっと若い弱冠33歳のペレス・ロケが彼を継いで外相となった。

2001年は米国で「9.11同時多発テロ事件」が起きた年だ。この年末、米国からの食糧品と医薬品が37年ぶりに入ってきた。しかし033月の反体制活動家75人の一斉逮捕は、4月の米国によるテロ支援国家指定(食糧品・医薬品は継続)、6月の欧州連合(EU)によるキューバ制裁(事実上1年半で終る)に発展した。キューバにあっては、経済開放政策が見直された。革命の理念と相反する国民間格差の拡大にフィデル・カストロも業を煮やしたため、とみられた。04年初頭までに個人営業に対する課税強化や新規参入の規制が見られ、また外貨は法定価格による交換が義務付けられた。ラヘ個人への批判は無かったが、影響力が低下し始めたのではなかろうか。その2年半後、フィデルが倒れた。そして米国発世界同時不況に入り、米国でオバマ政権が発足した年に解任された。アルダナ50歳に対して57歳だ。共に解任されたペレス・ロケはロバイナ42歳に対して、43歳である。いつか来た道だろうか。

今回の二人の解任劇を、革命世代の揺り戻し、とみるメディアもある。ラウルが国家評議会副議長に選出されフィデルを継いだ時、第一副議長、つまりナンバー2の位置に就いたラモン・ベントゥラの存在を指摘する人もいる。だが、そうではあるまい。今回解任されたのは外国貿易相と経済・企画相も同様だ。またこの際に経済関係の4省が2省に統合されている。行政改革が進んでいるとみてもよかろう。ラヘ官房長官は国家評議会議長を兼務する閣僚評議会議長(首相)の実務を代行する職責を担う。外交、通商、経済政策面で、外相、貿易相、経済・企画相の上位に立つ。官房長官としてのラヘ後任についての情報は、私は持ち合わせない。ひょっとしたら廃止されたのかもしれない。

ペレス・ロケの後任は外務次官の昇格だから、外交のプロが外交を担うマルミエルカ時代への回帰かも知れない。おりしも米国がオバマ政権になった。事前の期待に反して、オバマ大統領もキューバ政策は踏襲する、と言う。ラウルとは会っても良いとは言うものの、今のままではせいぜい在米キューバ人の里帰りと家族への送金の頻度を、クリントン政権時代の水準にまで戻すくらいしか改善の余地はないようにもみえる。ラウル自身は対米関係改善を目指しているようだ。外交、通商政策面での変化は、あり得る気がする。

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2009年3月 5日 (木)

中南米の麻薬問題と米国

メキシコのカルデロン政権が最近最も注力している1つに麻薬犯罪組織の制圧がある。20092月末のAP電が伝えるところでは、同大統領は麻薬組織による暴力を自らの任期中(2012年まで)に制圧する、と語った。また同国検事総長の話しとして、かかる暴力による死者は086,290人、前年比倍増、09年は最初の8週間で1,000人以上出た、ともいう。数字の凄まじさに驚く。彼は、0612月のカルデロン政権発足以来、麻薬組織の暴力制圧作戦(いわゆる麻薬戦争)で、今日まで65億㌦が費消され、死亡した警官及び兵士は800人にも上る由だ。それでもカルテルのメンバーが死者の9割を占める、とし、最近の死者数の急増は、カルテル自体の瓦解が近いことを示す、とも言う。米国に対しては

l       消費国としての麻薬犯罪取り締まり

l       武器密輸の取り締まり

l       汚職撲滅

を注文する。

中南米の麻薬問題は、対米問題でもあるようだ。私のホームページ中の「米国とラテンアメリカhttp://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI12.htmではあまり述べていないが、米国は麻薬犯罪撲滅をラ米諸国に要求してきた。米国で起きる麻薬犯罪の根っこは供給国にあり、だから生産国も流通ルート諸国も麻薬組織退治が必要、との考えからだ。ラ米側には、麻薬消費国の責任はどうなのか、という不満は強い。消費が無ければ供給も無い。米国内の麻薬密売ルートが取り締まりきれないのに、供給国に責任を押し付けるのは如何なものか、というわけだ。米国でも警察組織の一部が密売組織と繋がりを持っている、との疑惑もある。また供給側の責任を言うなら、供給国側の麻薬犯罪組織が入手する武器は、米国から入っている。

麻薬、といえば、有名なのは何といってもコロンビアだ。下院議員を務めたエスコバル(Pablo Escobar Gaviria)が作ったメデジン・カルテルは、1980年代に暴力組織化した。政治家や検察官が誘拐、殺害され、同カルテル幹部が米国に引き渡されてもいる。898月には当時のバルコ政権(1986-90)が麻薬戦争を宣言した。おりしも大統領選挙運動が行われており、同カルテルによって与党自由党候補が暗殺されたばかりだった。その後、カルテルによる暴力の激化で治安も急激に悪化、他大統領選候補者らも暗殺された。落ち着いたのはコロンビア人犯罪者の他国への引渡しを禁止した新憲法制定によって、である。79年に米国と締結した犯罪人引渡し条約の対象が80年代に麻薬犯罪に関るコロンビア国民への適用が要求された。米国で裁かれるべき、との考え方からだ。また麻薬組織は当局との癒着関係があり根絶は難しい、という見方もあった。これがカルテルの暴力激化を呼んでいた、といえよう。

エスコバルは、憲法制定後一旦服役した。その後脱獄したが、結局は米国への引渡しにあう、と怖れたため、と言われる。同カルテルは199312月、彼が暗殺された後分裂し、カリ・カルテルが頭角を現したものの、90年代後半にはこれも幹部の大半が逮捕され、衰退する。問題は強力なカルテルを潰しても、コカインの輸出は一向に無くならないことだ。その後にノルテデルバリェ・カルテルが頭角を現した。左翼ゲリラからの自主防衛を目的とする自警団にも麻薬取引に関るところが多かったようだ。97年には自警団の全国組織、AUCが結成されていた。99年、コロンビアの麻薬撲滅のため総額75億㌦の半分を国際支援するプログラム、「プラン・コロンビア」が始まった。に米国が主導したのは勿論だが、コカ栽培農家への転作奨励や経済支援、法治システム近代化に加え、米国からは治安保全面でのソフト、ハード両面での協力を得ることとなった。

2000年代になると、ノルテデルバリェやAUCの幹部が米国に引き渡された。ベネズエラやエクアドル、中米諸国、メキシコの取り締まり協力をも得た。それでもコカインの対米輸出はなくならない。FARCなど左翼ゲリラも麻薬取引に携わる、と言われるが、実態はどうだろうか。

米国に入る麻薬は、コカインばかりではない。メキシコで生産する麻薬、マリファナの方が数量的にはずっと多い。アジアからのヘロインも、さらにはコロンビア産コカインも多くがメキシコ経由で米国に入ってくる。その額は米国政府の推定で年間200億㌦以上にもなり、全体の8割を占めるとまで言われる。長い国境線を考えると、米国にとってはメキシコの方が厄介だ。麻薬組織としてはシナロア・カルテル、ガルフ・カルテルなどが知られる。カルデロン政権の麻薬戦争宣言に至ったのは、カルテル同士の縄張りを巡る暴力抗争によるもので、背景や経緯は十数年前のコロンビアのそれとは異なる。

20086月に発効した米国の対メキシコ・中米治安保全協定「メリダ・イニシアティヴ」は、向こう3年間に亘り最大で16億㌦を、主としてメキシコに供与するもので、ヘリコプターや小型飛行機、近代的情報システムの供与や各種訓練を含む。初年度4億㌦と決まっていたが、どうも3億㌦に減額されたようだ。ともあれ始まったばかりで、実効性が問われるのはこれからだ。

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