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2009年2月16日 (月)

ベネズエラ憲法改正の国民投票

2009215日に行われたベネズエラの憲法改正国民投票は、大統領の連続再選にかかる規制を撤廃することへの賛否を問うもので、既に同様の国民投票を200712月に行い否決されたテーマである。チャベス大統領の強い意向で本当に再度実施された。ちょっと常識では考えられない。

チャベス大統領については日本のメディアも、反米左派と、ことある毎に紹介し言動を伝える。カストロを師と仰ぎ、ロシアやイランと好関係を深め、米国の癇に障ることを平気でやってのける。左派政権ならラ米では最早珍しくなくなった。それでも、独裁化に繋がる大統領の再選規制撤廃にここまで執着する最高権力者はいない。次の選挙で再選されれば、彼の任期は2019年まで保証される。1999年を起点とすれば、20年間にもなる。その時点でまだ66歳だ。カストロは病気で退いた80歳まで、実質上、47年間政権を担った。革命家でもないチャベスがそこまでは行くことは有り得まい。年齢的にも無理だ。

第二次世界大戦後、中南米(旧スペイン・ポルトガル圏のラ米)で20年以上も政権に就いたのは、カストロ以外ではパラグアイのストロエスネル(35年間)とドミニカ共和国のバラゲール(22年間。断続期間あり)しかいない。チャベス在任期間が、この二人に伍すことは、不可能ではあるまい。

そもそもベネズエラには建国以来、独裁者が輩出した。建国を指導したパエス(実質在任1830-47)、グスマン・ブランコ(同、1870-92)、ビセンテ・ゴメス(同1908-35)の3人が、建国以来105年間の内、66年間を支配した。ラ米でも極端に遅くまでカウディーリョ時代が続き、ビセンテ・ゴメスの死去でどうにか終った、と言える(私のホームページ「カウディーリョたち-ラ米建国期」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI4.htm参照)。彼の死後は民主化への移行期間として、軍人の大統領が二期続いた。初めての普通選挙で選出されたガリェゴスの政権は、1年も持たずに、ペレス・ヒメネスが率いる軍事クーデターで倒れた。

そのペレス・ヒメネス軍政が大衆運動で崩壊したのは、19581月のことだ。翌年大統領に就任したベタンクールから40年間、ベネズエラは大統領の連続再選無しという鉄則を護り続けた。また与野党交代も度々行われた。南米の殆どが軍政下にあっても、ベネズエラは民政を続けた。

当初左翼ゲリラに悩んだベタンクール(1959-64)がキューバの米州孤立化に一役買ったのは事実だ。だが、彼と同じ「民主行動(AD)」のペレス第一次政権下の74年には復交している。チリ(アジェンデ社会主義政権)、ペルーのベラスコ(左派軍政)、アルゼンチンのカンポラ(ペロン党政権)、パナマのトリホス(民族主義軍政)に次ぐ早さだ。76年に起きたキューバ航空機爆破事件の犯人2人を拘束したベネズエラ当局が80年に解放したことで、今度はキューバが断交するが、これも89年、ペレス第二次政権で回復した。

1980年代にラ米を襲った対外債務危機は、世界的な産油国、且つOPECの創設メンバーでもあったベネズエラをも直撃した。ベネズエラも資本の大量流出によって債務履行が困難になった。IMFが乗り出し歳出削減、経済構造調整が行われるのは、他のラ米諸国と変らない。ハイパーインフレや物価高騰も同様だ。90年、カラカスで食糧暴動が起きる。37歳で空軍中佐だったチャベスが反乱を起こしたのは922月のことだ。カストロと異なり、独裁政権打倒の革命ではない。彼の試みは挫折したが、94年に大統領になったカルデラの恩赦で釈放され、自らの政治活動に入った。革命家ではないが、既存大政党を激しく攻撃する彼のレトリックは大衆心理を惹き付け、98年の大統領選で当選した。

彼が手を付けたのは、先ずはベネズエラ人の誇りである南米の解放者、ボリーバルの名前を冠する国名変更、及び大統領任期の1年延長と一回の連続再選を認める新憲法提案だった。就任後僅か3ヵ月後に行った国民投票で、圧倒的多数がこれに賛同した。続くのは制憲議会議員選挙だ。これには彼の与党連合が圧勝した。そして、議会が出した新憲法案が同年末、もう一度の国民投票にかかり、やはり圧倒的多数の賛成を得た。翌年央、新憲法下での総選挙で与党が議席で過半数を取り自らも選任された後、有名な「大統領授権法」を出し、1年間、議会の承認を経ずとも法律を制定する強権的手法で、土地改革法(5千㌶以上の所有地接収)や炭化水素法石油(ロイヤルティ引き上げ)など、矢継ぎ早に通した。

新憲法提案で制憲議会を召集し、連続再選まで認める手法は、エクアドルのコレアやボリビアのモラレスを想起させる。土地改革については、モラレスは新憲法で規定した。同じ左派でもニカラグア革命を指導し、2007年に政権復帰したオルテガ大統領が改憲に臨む動きは、今のところみられない。

なお、チャベスは新憲法下の最初の選挙で得た任期を第一期として、2006年末に連続出馬し、当選したが、この解釈で通したのはペルーのフジモリと同じだ。ただ、憲法公布後半年後に選挙に臨んだチャベスと異なり、フジモリは旧憲法下の任期を終えて、新憲法下の第一期に入った。

ともあれ、かかる超長期政権を求めるチャベスには、国際社会は批判的だ。何より、リンカーンを尊敬する民主主義の申し子のようなオバマ大統領が、これで修復に動こうか。石油価格の低位安定で国際収支が毀損している中で、貧困対策への財源も細る。彼は、本当に2012年の選挙に、出馬するだろうか。

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2009年2月 4日 (水)

映画ゲバラ二部作(2)

第一部の「28歳の革命」に続いて、第二部「39歳、別れの手紙」を観た。196510月、キューバ共産党が創設されたが、その記念式典で、カストロがゲバラから貰った「別れの手紙」を読み上げる。映画の冒頭のシーンだ。世界にはまだ自分が貢献できる場所がある、と言い、キューバから去ることを伝えている。この時点では、既に彼は家族を残してキューバを離れていた。

原題は前者が「The Argentine(アルゼンチン人)」で、後者は「Guerrilla(ゲリラ)」となっている。アルゼンチンから来たゲバラがキューバの革命に如何に関ったかを描いた第一部に対し、第二部では彼がボリビアに潜入して約320日間、率いたゲリラ活動そのものを淡々と描く。ご存知の通り、彼は1967108日にボリビア軍に捕えられ、2日後に銃殺される。この史実を知る人には、この映画が彼の挽歌に映る。所々で流れる、哀調を帯びたアンデスフォルクローレ調のギターと最後のカンシオンが、実に効果的に響く。

彼のゲリラ活動は、銃を担ぎながら時々国軍との銃撃戦を行いつつ、圧政に苦しむ貧しい農民と労働者が圧政者を追放し、平等社会を築き上げるため決起するよう遊説し、ゲリラ兵士を募り、或いはゲリラへの理解と支援を求めて村から村へ、ゲリラ服で移動していく、というものだ。反乱の基幹を深化させ拡大することで革命が実現できる、反乱拠点は農村部に置くのが現実的、というゲバラの考え方はよく知られる。キューバ革命で学んだものだろう。だから、農民に対する強要や掠奪は、相手がゲリラに反発し敵視しても、厳に戒めた。

ボリビアはキューバに7年も先行して社会革命を成し遂げた。この主体はパス・エステンソロ(私のホームページ「ラ米のポピュリズム」中の「第二次世界大戦後のポプリスタ」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C9_1.htm#5参照)が指導するMNR(直訳すれば、「民族主義革命運動」)であり、もともとボリビアよりも革命のさらに先輩たるメキシコに似た民族主義革命だった。だから農地改革を行い、鉱山を国有化した。前者は、キューバが米国の経済制裁を受ける切っ掛けになった措置だが、ボリビアには米企業の保有農地が殆ど無かったため、問題化していない。後者も同様だ。

パス・エステンソロは196411月、彼の政権で副大統領だったバリエントス司令官に追放された。パス・エステンソロの政治が革命理念から離れている、としてクーデターに及んだ。メスティソ(白人と先住民との混血)で空軍パイロット出身のバリエントスは先住民の言葉が話せる。66年の選挙で、大統領になった。ゲバラが潜入したのは、その数ヶ月後だ。そんなボリビアを次なる革命の場所に選んだ。彼に言わせると、バリエントスこそ革命を裏切った。結果として農民や労働者の貧困が進んだ。国有化されていた鉱山で待遇改善を求める労働者ストが1965年から頻発し始め、一部はゲリラ闘争に入った。ゲバラがここを選んだ背景として記憶したい。当時非合法だったボリビア共産党からもゲリラ参加者がいた。共産党の資金支援も考えたはずだ。

彼の潜入後、共産党は武力闘争から離脱した。この頃、ラ米各国の共産党の大半が武力闘争を忌避していた。ソ連の意向でもあった。676月、錫鉱山で起きたストで国軍が出動し、70人とも90人とも言われる犠牲者が出た。その後、鉱山労働者の実力闘争が陰をひそめた。また先住民を中心とする農民層には、革命理念は伝わり難い。加えて、ゲバラ潜入を知った米国が黙って見過ごすはずはなく、対ゲリラ戦の訓練を申し入れた。当時米国はベトナム戦争の最中であり、対ゲリラ戦での経験を積んでいた。また特殊部隊を提供した。映画では、特殊部隊に参加した亡命キューバ人も登場する。ゲバラの率いるゲリラ勢力は数十人規模に過ぎない。こうしてゲバラの闘争は彼の死によって終る。闘争に参加した十数名のキューバ人の殆どが死亡した。

有名な「ゲバラの日記」を19686月にハバナに届けたのは、しかし生き残りのキューバ人ではなく、当時のボリビア内相だ。ハバナでゲバラの日記が発売されると世界中で読まれ始める。この年から世界各国で反体制運動の火が燃え盛ったことと無関係ではあるまい。ペルーではベラスコ将軍による左派軍事クーデターも起きている。694月、彼を処刑して1年半経って、バリエントス大統領は航空機事故で死亡した。同年10月、ペルーに1年遅れて、ボリビアにもトーレス左派軍政が誕生した。ペルーとは異なり、これは1年半で崩壊する。

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2009年2月 1日 (日)

オバマ大統領就任に思う(4)

メディアではアメリカ合衆国(米国)史上、初めてのアフリカ系(黒人系)大統領誕生、という点に関心が集まる。

The World Fact Book,2008CIA)から推計すると、中南米(ラテンアメリカ。旧スペイン・ポルトガル領のイベロアメリカ。旧フランス領ハイチは除く。以下ラ米)の黒人は飛び抜けて最大のブラジルの約1,200万人を含む2,000万人となる。黒人で大統領になったのは、ドミニカ共和国で1882年から暗殺されるまでの17年間、事実上の最高権力者だったウリセス・ウロー(Ulises Heureaux)がいる。この国は現在でこそ黒人は人口の11%を占めるだけだが、1821年にハイチに併合された関係で、その名残から44年以降の建国期には、黒人の比率はずっと高かった。ウローもフランス語圏の名前だ。その後は、黒人の大統領は出ていない。ブラジルにも、その他黒人人口が多いラ米諸国にも、彼以外で大統領になった黒人はいない。

一方米国で圧倒的に少ない先住民をみよう。同じく、ラ米ではメキシコの3,200万人を含む計6,200万人と推計できる。十九世紀央のメキシコでレフォルマ(改革)運動や抗仏戦争時の指導者だったフアレス、ペルーでフジモリ退陣後のトレド、及び2006年からボリビアのモラレスの3人が大統領になった。ついでながら、フジモリは唯一のアジア系だ。メキシコは今でこそ全人口の30%だが、独立時に過半数を占めていた。ペルーは現在全人口の45%、ボリビアは55%を占める。先住民比率が高い国としてはあとグァテマラとエクアドルがあるが、こちらの方はまだだ。先住民は固有の言語を持つ。共同体の中で生活し、スペイン語社会との交流を持たず、従ってこどもが学校教育を受けないところも多い。

ラテン民族がアングロサクソンに比べ人種偏見が薄いから混血が進んだ、という無邪気な講釈がある。

ムラートとは、白人と黒人の混血を言う。同様にラ米全体で9,300万人と推計できる。この内ブラジルは人口の39%だから7,400万人、これに続くのはドミニカ共和国で700万人(人口の73%にもなる)。ブラジルで大統領になったムラートは、私には思いつかないが、ドミニカ共和国には多い。1930年から暗殺されるまで31年間、この国を支配したトルヒーヨもそうだった。キューバもムラートの比率は51%で、カストロが追放したバティスタもそうだった、と言われる。

白人と先住民の混血、メスティソは1.5億人ほどになりそうだ。6,600万人がメキシコ、2,600万人がコロンビアと、これも集中する。メスティソの最高権力者は方々に輩出した。代表的なカウディーリョ(私のホームページ「カウディーリョたち-ラ米建国期」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI4.htm参照)の多くがそうだ。

The World Fact Book,2008CIA)では米国自体の白人比率を80%とする。これには全人口の15%を占めるヒスパニック(中南米系)は含まれないので、概ね2億人、という計算だ。ラ米十九ヵ国の場合は1.9億人と推計でいるので、絶対数はあまり違わない。だが比率では35%に過ぎない。歴代の大統領は、上記の例外はあるが、全体としては白人が殆どだ。その例外にしても、カウディーリョや軍人出身の独裁者に多い。米国同様、最大二期務めるだけの大統領が交代していく前提で、黒人、先住民、ムラート、メスティソが白人に伍して大統領になれるのが当たり前になって、初めて人種偏見が薄い、と言えよう。

最後に、女性大統領が出ている、という点でラ米が米国に先行していることを述べておこう。米国で女性に参政権が付与されたのは1920年、民主党のウィルソン第28代大統領(1913-21)のときだ。パナマに25年、アルゼンチンに27年、チリに30年、ニカラグアに35年も先行した。ところが、すでに上記4ヵ国には女性大統領が誕生している。最も早いニカラグアのバリオス・デ・チャモロ(1990-97)は、反ソモサ運動の指導者で且つ暗殺されたチャモロ未亡人、次のパナマのモスコソ(1999-2004)は、劇的な政治人生を歩んだアリアス元大統領の未亡人だから、特殊なケース、という人も、チリのバチェレ(2006-)、アルゼンチンのフェルナンデスには脱帽されよう。後者は、キルチネル前大統領夫人で、1年ほど前までは南米のヒラリーと言われた。ヒラリーは民主党候補選で負け、クリスティナ(フェルナンデス)は大統領選で勝った。ヒスパニック系米人はオバマよりヒラリーを応援したようだ。

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