« 2009年のラテンアメリカ選挙 | トップページ | 映画ゲバラ二部作(1) »

2009年1月13日 (火)

キューバ革命五十周年に思う

現役時代、ハバナに都合三度も駐在した私には、自分から言うのも可笑しいが、キューバに対する思い入れが強い。

最初の駐在は革命が成立して17年経っていた19762月からで、フィデル・カストロはまだ49歳、私個人的には、テレビ以外では街でチラと見た程度で彼のみならず、街の雰囲気も市民も、何とはなしに革命の名残が感じられた。

それから33年を経た本年11日、病院でリハビリ中のフィデルではなく、実弟で75歳のラウルによって革命五十周年式典が執り行われた。今日ラテンアメリカ(以下、ラ米)では、キューバの他にいわゆる左派政権が4ヵ国に出来ている。1週間後にエクアドルのコレア大統領が訪問したが、ともあれこの式典には4大統領の誰も出席せず、革命を讃えるメッセージだけが届けられた。式典自体、昨年3度の大規模ハリケーンに見舞われただけに、盛大に祝う力は無かったのかも知れない。ちょっと寂しい気がする。おりしも日本ではキューバ革命の英雄ゲバラを主人公とする映画が掛かっている。

キューバ革命は、1910年勃発のメキシコ革命や79年成立のニカラグア革命と同様、独裁者による支配体制打倒がトリガーとなった。ホームページのラ米の革命http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI7.htmの「キューバ革命」に経緯を述べたが、アメリカも革命成立から1週間後には、革命政権を承認したものの、僅か2年で国交を断絶した。それから14年経ち、私が赴任する前年の75年、アメリカに続いて(メキシコを除き)決議されていた米州機構(OAS)の制裁解除と、アメリカによる米企業の第三国子会社対キューバ取引承認が実現していた。キューバがソ連型国家体制を構築し始め、一方で反米政権下のアンゴラ派兵に踏み切ったにも拘わらず、在米キューバ人の送金解禁(米)と里帰り(キューバ)承認、利益代表部の相互設置、と、着実に雪解けは進んだ。アメリカでは771月から、後年人権外交で有名となるカーター民主党政権下にあった。

1980年、12.5万人ものキューバ人がアメリカに向って出国する事件があった。当時53歳のフィデルの「Que se vayan(出たい奴は出よ)」という表現がいまだに私の耳に残っている。上記在米キューバ人里帰りで、アメリカの生活水準が非常に高いことを思い知らされた結果、革命への幻滅と不満を昂じらせるキューバ人が急増した。フィデルは慰留ではなく、不満分子一掃を選択したことになる。私が二度目のハバナ駐在に赴いたのはこの年央で、落ち着きを取り戻していた。おりしもアメリカでは大統領選挙が行われ、カーターは共和党のレーガンに敗退した。ラ米の対外・域内戦争http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI8.htmの「二十世紀の内戦」で述べている中米危機は、レーガン政権下のキューバへの態度を硬化させた。

だが、1975年から続いていた米企業の第三国子会社対キューバ取引を再禁止することを含め、制裁を強化する「トリチェリ法」が制定されたのは、92年、再選を狙って大統領選をクリントンと争っていたブッシュ大統領政権最終年のことだ。ソ連崩壊で、キューバが後ろ盾を失って間もなかった。実はこの年、私は第三回目の駐在に向かった。石油の大半を対ソ輸入に頼っていたキューバは、先ず電力生産が大きく落ち込んだ。直接的には、工業生産が大打撃を受けた。間接的には、バス便やトラック輸送が減り、物資輸送や、それ以前に労働者の就業が困難になる職場が続出した。停電によって、冷蔵庫の中の配給物資が持たなくなった。給水にも影響が出た。暗い夜、食物と娯楽(テレビ観賞など)を奪われた市民の不満が、所々で暴動の形で爆発した。アメリカではCastro’s Final Hour(この頃出版された米人ジャーナリスト、オッペンハイマーによる著作本のタイトル)が囁かれ始めた。日本商社の殆どが、駐在員を引揚げさせた。私も、その一人となる。それから、キューバ人で出国する人が急増した。

この危機を何とか凌いだのは、国民の自営業と外貨保有の解禁、観光分野始めとする産業分野への外国企業投資の誘致だった。アメリカはクリントン民主党政権下の1996年、新たな制裁を課した。「ヘルメス・バートン法」である。全ての第三国企業がかつての米企業資産と思しき物件への投資まで制裁対象とする、域外適用(国際法違反)として悪名高い。大統領選挙のこの年、民間機をキューバ軍が撃墜したことがここまで駆り立てた。クリントンは再選された。外国企業のキューバ投資にブレーキが掛かった。98年になると、ローマ法王がキューバを訪問、カストロを師と仰ぐベネズエラのチャベスが大統領になったことも手伝い、個々には色々あるが、全体としてラ米諸国のキューバを見る目が温かさを増す。国連で毎年、アメリカによるキューバ制裁解除を求める決議が出されていた。クリントン政権は、水面下では食糧及び医薬品の対キューバ輸出解禁など、一定の制裁緩和を進めてもいた。ひょっとしたら撤廃まで進むのでは、と期待したものだ。ブッシュ二世が米大統領になった。食糧と医薬品の輸出は実現をみた。しかし9.11事件後、対キューバ関係改善には冷淡であり続けた。

この中で、キューバは生き残っている。ラ米、特にベネズエラとの経済関係を深め、中国とロシアも関係強化に当たってきたことも大きい。観光客は増加の一途で、且つ制限は加えられても在米キューバ人の送金は続き、貿易収支こそ大幅赤字の中で、サービス及び移転収支の大幅黒字で、国際収支は何とか回ってきた。

半世紀もの間アメリカの制裁を受けながら生き残ったことの証として、革命五十周年式典には晴れがましささえあったことだろう。他国、特に同盟国から国家元首クラスが出席できなかった理由をあれこれ推測しても仕方がない。公式にはアメリカの対キューバ関係改善には、キューバの反政府活動家(政治犯)の釈放が最低限必要、としている。ブッシュ政権下では、カストロ兄弟の退陣と自由民主主義国家への移行まで求めていた。オバマ次期大統領は、政治犯問題で時間空費はすべきでない、と言い、ラウルは首脳会談を受ける旨を表明している。今後の短期的な動きを注視していきたい。

|

« 2009年のラテンアメリカ選挙 | トップページ | 映画ゲバラ二部作(1) »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 2009年のラテンアメリカ選挙 | トップページ | 映画ゲバラ二部作(1) »