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2009年1月29日 (木)

オバマ大統領就任に思う(3)

アメリカ(米国)の前ブッシュ政権時代の8年、ラテンアメリカ(ラ米。旧スペイン・ポルトガル領のイベロアメリカ)の政権地図が大きく変った(私のホームページ「ラ米の政権地図」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI3.htm参照)。政権が中道右派だったブラジル(2002年)、アルゼンチン(03年)、ウルグアイ(05年)、グァテマラ及びパラグアイ(08年)が中道左派に、ボリビア(06年)、ニカラグアとエクアドル(07年)では左派に移った。より左傾化したのはパナマとペルーも同様だ。一概には言い切れないにせよ、左傾化はより米国離れに繋がる。それまで米州におけるリーダーたる米国に対し露骨な敵対言動を繰り返してきたのは、一時的な例外を除けば、キューバだけだった。これにベネズエラとボリビアの反米言動が加わり、BRICsの一角を占めるブラジルにも、抗米的言動が目立つ。ラ米全体として、米国に批判的になっている。

ブッシュ前政権の対ラ米外交で目立ったのは麻薬問題、テロ指定組織に対する軍事支援、対キューバ制裁強化ほどで、全体として見れば静かだった。スペイン語も解し何か押し付けたわけでもない彼にラ米諸国側が反発し、対米関係がギクシャクしたのは意外だった、とも言える。いわゆるテロとの戦争で、力ずくで米国価値観を他国への押し付ける姿が、過去の高圧的な米国の対ラ米関り方を思い出させたのかも知れない。

ラ米史を紐解くとラ米に対する米国の関りの大きさに驚く。1821年、エクアドル、ペルー、ボリビア及びキューバを除くラ米が宗主国から独立を果たして間もない頃に、米州のことは米州の自決に委ねよ、と迫った「モンロー宣言」。今や米国の誰も考えもすまいが、対メキシコ戦争を理由付けた1840年代の「明白な宿命(Manifesto Destiny)」思想。キューバの独立革命とパナマのコロンビアからの分離独立に介入するなどの「棍棒政策(Big Stick Diplomacy)」とドミニカ共和国及びニカラグアでの事実上の米軍統治(二十世紀初頭)。米州内民主主義体制を前提とした「善隣外交(Good Neighborhood)」(193040年代)と米州集団安保を唱えるリオ条約(1947年)、及び米州機構(OAS)創設(1948年)。ラ米の貧困撲滅を促した「進歩の為の同盟(Alliance for Progress)」(1961年から数年)とキューバ革命転覆を狙うピッグズ湾事件への関与、ドミニカ内戦への軍事介入(1965年)。米軍のパナマ侵攻(1989年)。最近では、事実上破綻したが、「米州自由貿易地域(FTAA)」構想。麻薬撲滅を図る「プラン・コロンビア」への国際支援主導。枚挙にいとまがない。

米国は、政権が共和党であれ民主党であれ、経済体制は国家による介入を最小限に抑える市場主義が絶対であり、社会主義中央計画経済は忌避する。また政治的には、代表制民主主義が基本で、共産党一党独裁制も、軍事政権も、一人に権力が集中する超長期政権も忌避する。

資本蓄積が脆弱で国民間社会的格差の大きいラ米諸国では、政府補助による貧富格差是正や貧困対策が不可欠だが、そのために経済活動への政府介入を辞さない政権も出てくる。二十世紀末に米国流経済政策を導入した形の規制緩和や公営企業の民営化が、逆に貧富差を広げ貧困層を増やした、という声が、国民の支持を集めた結果だ。オバマ大統領は始めから、こうして左傾化が進んだラ米諸国と付き合っていくことになる。

オバマ大統領は、現金融システムへの規制を掲げ、行き過ぎた市場原理主義経済を批判する。また、自動車産業救済にも積極的なようだ。経済活動への政府関与と言う意味で、政策の共通性を見るラ米諸国からの期待も集める。だが、これはそれこそ米国発世界同時不況を呼ぶ未曾有の経済危機に対して、であり、市場主義経済そのものは擁護する。基本的価値観は同じだ。外交問題について、従来の政策に囚われず、誰とでも話し合う用意がある、と、言明、これがラ米諸国からの期待に繋がっていよう。

彼が就任後早速行ったキューバのグァンタナモ海軍基地にある捕虜収容所の閉鎖は、どこも歓迎する。対中東、対ロシア外交にも変化が見られる。早晩、対ラ米でも関係改善の動きが出る筈だ。ただ、彼には米国の伝統的民主主義が根付いている。各国の個別政策を巡り、軋轢は続こう。ラ米諸国側からの期待が大きいだけに、崩れた時の反動が気にかかる。

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2009年1月27日 (火)

ボリビア新憲法への国民投票

2009年1月25日に実施されたボリビアの新憲法制定の是非を巡る国民投票の結果、これまで禁止されていた大統領連続再選が一回のみ可能となった。これは二十一世紀の社会主義を掲げるモラレス大統領の悲願でもあった。

大統領連続再選は、米国でも認められている。このこと自体騒ぐほどのことでもない、と思われようが、ラテンアメリカ(ラ米。旧スペイン・ポルトガル領のイベロアメリカ)十九ヵ国の中で、これを認めるのは、今回のボリビア、及び間接選挙のキューバ(国家評議会議長)を加えて8ヵ国だけだ(私のホームページ「ラ米の政権地図」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI3.htm参照。キューバを除くと回数は一回だけ)。残る11ヵ国は認めていない。昨年まではボリビアに加えエクアドルも認めていなかった。

国民投票の手続きをとってこれを認めさせた例として、1993年のペルー(フジモリ政権)、99年のベネズエラ(チャベス政権)、及び昨年のエクアドル(コレア政権)がある。それまでの政権が制圧に手を焼いたゲリア問題解決、及び混乱していた経済の建て直しを目的としたペルー以外は、全て左派政権が手掛けた。ペルーはフジモリ退陣後元に戻し、現在は再選禁止となっている。

1982年の民政移管からの四半世紀、現在風に言えば左派、中道、右派の既存政党が、交代で政権を担った。政権獲得のためには政治思想を超えて連立した。国民の55%が先住民で成人文盲率が今も13%CIAThe World Fact Book2008)の国の、政治の現実だった。先住民が総人口の過半数を占める国は、他には見当たらない。ペルーがそれに近い45%、と言われる。どちらも高文明を築いた旧インカ帝国を構成した。自らが先住民のモラレスがMAS(社会主義運動)を結成し、既存政治勢力に挑戦した。二度目で2005年の大統領選を制した。エネルギー資源開発の国家独占、土地改革、インフラ部門の国有化などの政策を実現するには時間を要する。これが、連続再選を可能とする新憲法制定に向わせた。また、先住民擁護をも盛り込んだ。その内の一つが、36箇所の先住民自治体に、県単位で委ねられた司法権の行使をも認める。

200712月に自治宣言を行ったサンタクルス、それに隣接するベニ、そのさらに北方に連なるパンド、及びタリハの4県は大規模天然ガス田を抱え、或いは農畜産の中心でもある。白人とメスティソが多い富裕地方として知られる。モラレス政権はベネズエラのチャベス政権と同様、非民主的な社会主義強権路線を目指している、として真っ向から対立し、エネルギー資源は県政府に管轄権があると主張する。088月に行われた正副大統領及び知事の信任投票では、双方が信任、となった。翌月、パンド県で、県知事支持派が中央政府事務所占拠とハイウェー閉鎖(結果として物流妨害による物資欠乏を惹き起こす)に対して大統領支持派が決起したが、15名の犠牲者を含む150名の死傷者を出す事件が起きた。反モラレス言動を強める4県(昨年12月に自治宣言を行った)の知事に対して支援した、として、上記流血事件後、米国駐ボリビア大使に国外退去させた(米国政府は関り合いを否定)。

新憲法が制定されても、国内の基本構造は変わっていない。キューバを除くラ米18ヵ国で知事が住民によって選出されるのはメキシコやブラジルなど8ヵ国に過ぎない。ラ米では市町村単位では首長は住民の直接投票によって選ばれるが、州、県単位ではその最高行政官(知事)は、大統領の任命、ないしは知事職を設けない制度の仕組みが長く続いた。それを近年になって知事公選制を導入したのが8ヵ国ある、ということで、ボリビアでは200512月に始まった。モラレスが大統領に就任する直前のことだ。

憲法公布後も、モラレスと地方との抗争は続くだろうし、暴力事件を惹き起こす可能性を論じる人もいる。暫くボリビアから眼が離せない。

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2009年1月25日 (日)

オバマ大統領就任に思う(2)

オバマ大統領の就任演説は、中南米政策に言及していない。一国の外交は、政権が交代しても継続性を保つのが常識だ。前政権とよほど重大な政治的対立軸が無いと、わざわざ触れることもないのだろう。ところが、中南米、つまりラテンアメリカ(ラ米。旧スペイン・ポルトガル領のイベロアメリカ)諸国側からみれば米国は飛び抜けて最大の貿易相手・出資元であり、国によっては百万人を超える自国からの合法・非合法移住者が住む国だ。1947年締結のリオ条約により米州集団防衛を主導する国でもある。米国の政策は、自国の国益に非常に重大な影響を及ぼす。就任演説に耳をそばだてる為政者は多かったのではなかろうか。

就任式の2日前、フェルナンデス・アルゼンチン大統領がハバナ入りした。同国から大統領がキューバに入ったのは、民政移管後の初代だったアルフォンシン以来23年ぶりのことだ。目的は経済関係の強化であり、経済界より大勢が同行した。滞在中、1時間以上、病床のフィデル・カストロと面会した。彼女によると、彼は、テレビでオバマ就任演説を聴き、強い信念を抱き、それを実行しようとしている大変誠実な人のようだ、と評し、非常に良い印象を持ったそうだ。米国はキューバに対し半世紀近い国交断絶と禁輸を続けてきた。近年は、経済制裁で毎年、国連総会で不名誉な非難決議を浴びている。キューバは1902年の建国から今日までの107年間の内、フィデル・カストロが一人で半世紀にも亘って最高権力者の座にあった。世界の民主主義のリーダーを自負する米国の価値観からは、遠い事実だ。歴代の政権がやれなかった国際的に不人気の制裁解除をオバマ政権では実現できるのだろうか。

フェルナンデスは次の訪問国、ベネズエラに向った。チャベス大統領のブッシュ政権時代の反米言動はつとに有名だ。彼はオバマ政権に期待を抱いた一人だが、近く大統領連続再選の回数制限を撤廃する憲法改定を巡り、オバマの「内政干渉」に神経を尖らせている。ベネズエラは1830年の建国からチャベスが登場するまでの169年間で、計75年もの年数を僅か3人が最高権力を担った。チャベスも連続16年間の大統領任期が確定している。過去半世紀に亘りキューバ以外のラ米諸国で、こんな長期政権はパラグアイにあった程度だ。やはり米国の価値観からは受け容れ難い面があろう。

ボリビアのモラレス大統領が20089月、米国大使を追放した。これにチャベス大統領も同調した。前者は反モラレス言動を強める4県(2007年12月に自治宣言を行った)の知事に対する支援がその理由で、直前にその内の一つパンド県で15名の犠牲者を含む150名の死傷者を出す事件が起きている。出自がコカ栽培農家のモラレスは、コカイン撲滅を訴える米国の圧力を受けながらもコカ農家を保護する。ベネズエラも麻薬貿易取り締まりに非協力的、という米国側の非難を受けてきた。この両国の大使級外交中断からの関係修復は、オバマ政権として喫緊の外交課題の一つではなかろうか。

米国の対ラ米関係で気になるのは、何も左派政権国ばかりではない。メキシコは麻薬の対米密輸ルートを抱え、強力な麻薬組織が暗躍する。加えて、1,200万人と言われる在米非合法移民の過半数がメキシコ人だ。さらに、かねてより彼自身はNAFTAに批判的だった。対応を間違えると、メキシコに潜在する反米意識が燃え上がりかねない。また、その流れで言えば、対中米・ドミニカ共和国自由貿易協定(CAFTA-DR)の扱いも注目すべきだろう。

南米唯一の右派政権下にあるコロンビアのウリベ大統領に対する国民支持率は高い。米国はこことの自由貿易協定(FTA)の批准を延ばしたままだ。加えて、オバマ大統領は、この国の労働権が侵害されている、として、FTAに反対してきた。米国を蝕む麻薬は、コロンビアが最大の供給国だ。以前の強力なカルテルが弱体化した、とは言え変っていない。この撲滅を目的に、ブッシュ前政権は巨額支援を実施した。プラン・コロンビアである。だが、コカ農家の転作支援だけでなく、物心に及ぶ軍事支援も含む。オバマ政権はどう変えようか。

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2009年1月21日 (水)

オバマ大統領就任に思う(1)

旧英領のアメリカ合衆国で、オバマ大統領が就任した。17894月にワシントンが初代大統領に就任して220年経ち、彼が第44代目に当たる。この国には大統領死去による副大統領昇格の事例はあるが、軍事クーデターによる大統領追放は無い。殆どの大統領が、一期4年、乃至は二期8年の任期を全うした。世界恐慌期から第二次世界大戦に至る時代に大統領となったフランクリン・ルーズベルト(任期1933-45年)の例外を除き、8年以上の政権に就いた人はいない。旧スペイン・ポルトガル領のイベロアメリカ(ラ米)十九ヵ国にこんな国は無い。

17767月の合衆国(以下、米国)独立宣言から34年経った18117月、コロンビアが「クンディナマルカ共和国」として独立を宣言した。カリブ沿岸地方を除いてはいるが、ラ米全体として、独立宣言第一号となろう。そし1年後、パラグアイとベネズエラが続く。自治権を宣言する動きは、1810年までにエクアドル、ボリビア、ベネズエラ、アルゼンチン、メキシコ、チリで起きた。だが、英領北アメリカ東部十三州とは異なり広大なラ米植民地では、かかる行動が、お互いに遠く離れた地で散発し、統一した政治行動にはなり得なかった(私のホームページ中の「ラ米概史」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI6.htm見開きページ参照)。独立後は、米国でワシントンにあった強い求心力が、ラ米の独立革命指導者には無かった。例えばアンデス諸国で激烈な独立革命戦争(「ラテンアメリカ諸国の独立革命」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI2.htm参照)に身を捧げた英雄、ボリーバルにすら、ワシントン並みの求心力は働かなかった。領土の大小、人口の多少に拘わらず、支配層同士の抗争が絶えず、地方ボス(カウディーリョ)が割拠する世界が、先ず現れた。

米国が憲法を制定したのは17879月、独立宣言から11年、宗主国軍を撃退して6年、パリ講和条約で対宗主国戦争が正式に終結して4年をかけた。

憲法は国家の仕組みを決める基本法で、その時々の政権に正統性を与えるべきものだ。その制定は、多くの場合、米国と異なり、講和条約(即ち宗主国による独立の承認)を飛び越した。宗主国による独立承認は、国際社会における当該国の正統性が正式に認められるプロセスだ。宗主国以外で独立承認が為されたにしても、国際的立場は決して強固なものではなかった。宗主国の皇太子が皇帝に即位する形で独立したブラジルに対するポルトガルの承認は1825年、即位後3年と早かった。これは特殊例だ。

副王との合意で副王軍司令官が取りつけたメキシコ独立の、スペインによる正式承認は、他と比べて飛び抜けて早かったがそれでも1836年、事実上の独立から15年経っていた。宗主国軍を撃退して独立を事実上達成した(つまり解放された)アンデス六ヵ国に対するスペインによる承認は1840年代以降、承認時期に大きい幅があり、ボリビアは1861年、建国から36年もの年月が過ぎていた。いずれもとっくに憲法を制定し、ベネズエラとエクアドルを除くと、大統領も何人か代わっていた。アルゼンチンの初めて憲法制定は1853年のことで、ラ米新興国では例外的に遅い。だがスペインが独立を承認したのはその6年後である。独立宣言からは43年も経っていた。

多くの国では、米国憲法をモデルに制定されたが、多くの国でその時々の為政者によりどのようにも解釈され、或いは改訂された。国内では政権に正統性の問題が常に付き纏い、主義主張の異なる勢力同士がカウディーリョと組みクーデターを繰り返す。或いは強力なカウディーリョによる支配が行われた(「カウディーリョたち-ラ米の建国期」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI4.htm参照)。だから国家統合そのものが遅れた。隣国との戦争、国内での内戦や内乱も頻発し、国庫も疲弊、国力は殺がれた。政情不安で政権がくるくる変るか、独裁者による強権政治が幅を利かせるか、或いは両方、という歴史を辿った。帝政を採ったブラジルや、他にも例外はある。いずれにしても、米国とは大きく異なる。

米国は、1812年から2年半続いた対英戦争後は西部開拓、即ち領土拡大に邁進できた。1846年から2年弱の対メキシコ戦争に勝ち、大陸の領土を太平洋岸まで拡大した。1861年から4年間に亘る南北、という内戦はあったが、産業革命の波に乗り世界の先進工業国の仲間入りを果たせた。

以上は何も建国期に限ったことではない。確かに、十九世紀後半からラ米でも一部の国々を除き、政権交代が順調に行われるようにはなった。経済的には、欧米工業国に対する資源輸出、製品輸入、及び資源とインフラ部門の投資受け入れという周縁地域の地位にありながらも成長を享受できた。ヨーロッパ列強の軍制を導入し、クーデターは起こりにくくなった。だが世界恐慌を機に、DNAが蘇ったかのように、再びクーデターが頻発し独裁政権が生まれ、1960年代には軍政に向かう国が多く出た。

一方で周縁地域からの脱出を狙う「輸入代替産業」政策によって工業化も進んだ。ただ工業化が本格化してから今日まで、早い国でも70年ほどしか経っていない。もともと工業化が進み、二度の世界大戦で殆ど無傷のまま、第二次大戦後圧倒的な経済・軍事力を誇示する米国は、クーデターや軍制とは無縁だった。

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2009年1月17日 (土)

映画ゲバラ二部作(1)

今年1月、ゲバラの映画が全国一斉に封切られた。かかっているのはメジャーの映画館だ。四年前、学生時代のゲバラを描いた「モーターサイクルダイアリー」を観たが、上映したのは恵比寿ガーデンプレースにある映画館だった。ゲバラ役のベニチオ・デル・トロはこの作品でカンヌ映画祭主演男優賞、という話題性からだろうか、それとも、今年がキューバ革命五十周年だからだろうか。

その第一部、「28歳の革命」を観てきた。グランマ号の82人の一人としてメキシコからキューバに渡った195612月に彼は28歳だった。シエラ・マエストラの山中に逃れ得た僅か12名で始めた革命について詳しい方も多かろう。若き日のカストロ兄弟、カミロ・シエンフエゴスらが、また、セリア・サンチェスやビルマ・エスピン(後のラウル・カストロ夫人)が、イメージそっくりに登場した。フィデル・カストロ役は、話し方も身振りも表情も、私がこれまでに見聞きした当人のそれと、まるで同じだ。何より、チェ・ゲバラは、まさしく本物が蘇ったようだ。ついでながら、彼以外が喋るスペイン語が、まさしく私が都合6年間現地で接したキューバ人のそれと同じで、懐かしさも覚えた。

映画は、1952年のバティスタによるクーデターのドキュメンタリー映像を先ず見せ、55年央にゲバラがメキシコ亡命中のカストロらと会ったところから革命が成立するまでの三年半を、6412月のニューヨーク滞在時のゲバラ(この部分は白黒)の表情と彼の国連演説を交えながら進む。

1964年はどんな年だったか。1月、フィデル・カストロ訪ソの機会にキューバ・ソ連間長期通商協定が締結され、5月にはアメリカが対キューバ全面禁輸(それまで食糧・医薬品の輸出だけは認めていた)に踏み切り、7月には米州機構(OAS)外相会議で米州諸国の対キューバ全面禁輸、断交を決議した。キューバを除くラテンアメリカ(イベロアメリカ。ラ米)18ヵ国で、国交を持つのは9月時点でメキシコだけ、という、キューバの米州内孤立化時代が完成した(ラ米略史「革命の時代」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C6_2.htm#5参照)。

ラ米では、1964年の1月、パナマで国旗掲揚事件が起きている。運河地帯でのパナマ国旗掲揚拒否を受けて抗議したパナマ市民が暴徒化し、米軍がこれを鎮圧するに際して多くの犠牲者が出て、当時のチアリ政権は、三ヵ月間、対米断交に及んだ。ゲバラの前にキューバ批判演説したパナマ代表に対し、ゲバラが指摘したのはこの点である。

ニカラグアとベネズエラの代表がキューバ非難演説を行うシーンも出る。1961年の有名なピッグズ湾事件では、グァテマラで訓練を受けた亡命キューバ人はニカラグアから出撃した。この後、ニカラグアでサンディニスタ民族解放戦線(FSLN。今日の政権与党)の前身が結成されゲリラ活動に入った。翌年、放送局占拠事件を起こす。ベネズエラでは62年に各地で暴動が起き、民族解放軍(FALN)というゲリラが結成され、海軍基地や政治犯を収監する刑務所への襲撃事件を惹き起こしていた。いずれのゲリラも、キューバ革命に刺激されて結成されたものだ。他のラ米諸国でも多くの国でゲリラが台頭、長期軍政入りに繋がっている(ラ米の軍部-軍政時代を経て「軍政時代」及び「ラ米諸国のゲリラ戦争」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C10_1.htm#3参照)。

映画の第一部は、革命成立までを扱ったものだ。シーンがよく飛んでいるが、ゲバラの革命観形成の過程や人となりを見る積もりなら、実に上手くできている。医者として村人を診る彼の表情が良い。また部下への指導も、実に人間的だ。弱者への優しさと自分自身の肉体的弱点(喘息持ち)の場面が何度も出てくる。毅然とした決断力と行動力を見せてくれるのは、映画の終盤である。

彼が目撃したグァテマラのアルベンス政権崩壊事件に触れていないので、少々分かり難いが、この事件の背後に同政権を共産主義と断定した米国政府の意向(東西冷戦下の警戒と米企業保有地まで対象になる農地改革への懸念)があったことはよく知られる。彼の反米意識はこの時強まった。映画で革命成立後の施策として何度も「農地改革」が語られているが、来るべき革命政権の対米摩擦の予兆として捉えると分かり易い。農地改革自体は、大土地所有制が国民の貧富格差を生み出す基、として、その改革を重要課題とする考え方が広まり、決して突飛な施策ではなかった。さらに言えば61年にアメリカのケネディ政権が打ち出した「進歩のための同盟」にもうたわれている。制度上、これを明文化したのがメキシコの「1917年憲法」で、この実行で有名なのが同国のカルデナス政権(1934-40年)だ。この時は、アメリカが対ラ米「善隣政策」のルーズベルト政権で黙認された。52年のボリビア革命でも実行された。米企業の利害が無いだめか、対米関係では何事もなかった。そしてグァテマラである。アメリカは、この時は動いた。

キューバ人で、私が大変に親しくしていた何人かは、子息にエルネストと名付けた。エルネスト・チェ・ゲバラを慕ってのこと、と言っておられた。フィデルを嫌いなキューバ人の何人かとも親交はあるが、ゲバラを敬愛しない人に会ったことがない。この点については、別の機会に譲ろう。

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2009年1月13日 (火)

キューバ革命五十周年に思う

現役時代、ハバナに都合三度も駐在した私には、自分から言うのも可笑しいが、キューバに対する思い入れが強い。

最初の駐在は革命が成立して17年経っていた19762月からで、フィデル・カストロはまだ49歳、私個人的には、テレビ以外では街でチラと見た程度で彼のみならず、街の雰囲気も市民も、何とはなしに革命の名残が感じられた。

それから33年を経た本年11日、病院でリハビリ中のフィデルではなく、実弟で75歳のラウルによって革命五十周年式典が執り行われた。今日ラテンアメリカ(以下、ラ米)では、キューバの他にいわゆる左派政権が4ヵ国に出来ている。1週間後にエクアドルのコレア大統領が訪問したが、ともあれこの式典には4大統領の誰も出席せず、革命を讃えるメッセージだけが届けられた。式典自体、昨年3度の大規模ハリケーンに見舞われただけに、盛大に祝う力は無かったのかも知れない。ちょっと寂しい気がする。おりしも日本ではキューバ革命の英雄ゲバラを主人公とする映画が掛かっている。

キューバ革命は、1910年勃発のメキシコ革命や79年成立のニカラグア革命と同様、独裁者による支配体制打倒がトリガーとなった。ホームページのラ米の革命http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI7.htmの「キューバ革命」に経緯を述べたが、アメリカも革命成立から1週間後には、革命政権を承認したものの、僅か2年で国交を断絶した。それから14年経ち、私が赴任する前年の75年、アメリカに続いて(メキシコを除き)決議されていた米州機構(OAS)の制裁解除と、アメリカによる米企業の第三国子会社対キューバ取引承認が実現していた。キューバがソ連型国家体制を構築し始め、一方で反米政権下のアンゴラ派兵に踏み切ったにも拘わらず、在米キューバ人の送金解禁(米)と里帰り(キューバ)承認、利益代表部の相互設置、と、着実に雪解けは進んだ。アメリカでは771月から、後年人権外交で有名となるカーター民主党政権下にあった。

1980年、12.5万人ものキューバ人がアメリカに向って出国する事件があった。当時53歳のフィデルの「Que se vayan(出たい奴は出よ)」という表現がいまだに私の耳に残っている。上記在米キューバ人里帰りで、アメリカの生活水準が非常に高いことを思い知らされた結果、革命への幻滅と不満を昂じらせるキューバ人が急増した。フィデルは慰留ではなく、不満分子一掃を選択したことになる。私が二度目のハバナ駐在に赴いたのはこの年央で、落ち着きを取り戻していた。おりしもアメリカでは大統領選挙が行われ、カーターは共和党のレーガンに敗退した。ラ米の対外・域内戦争http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI8.htmの「二十世紀の内戦」で述べている中米危機は、レーガン政権下のキューバへの態度を硬化させた。

だが、1975年から続いていた米企業の第三国子会社対キューバ取引を再禁止することを含め、制裁を強化する「トリチェリ法」が制定されたのは、92年、再選を狙って大統領選をクリントンと争っていたブッシュ大統領政権最終年のことだ。ソ連崩壊で、キューバが後ろ盾を失って間もなかった。実はこの年、私は第三回目の駐在に向かった。石油の大半を対ソ輸入に頼っていたキューバは、先ず電力生産が大きく落ち込んだ。直接的には、工業生産が大打撃を受けた。間接的には、バス便やトラック輸送が減り、物資輸送や、それ以前に労働者の就業が困難になる職場が続出した。停電によって、冷蔵庫の中の配給物資が持たなくなった。給水にも影響が出た。暗い夜、食物と娯楽(テレビ観賞など)を奪われた市民の不満が、所々で暴動の形で爆発した。アメリカではCastro’s Final Hour(この頃出版された米人ジャーナリスト、オッペンハイマーによる著作本のタイトル)が囁かれ始めた。日本商社の殆どが、駐在員を引揚げさせた。私も、その一人となる。それから、キューバ人で出国する人が急増した。

この危機を何とか凌いだのは、国民の自営業と外貨保有の解禁、観光分野始めとする産業分野への外国企業投資の誘致だった。アメリカはクリントン民主党政権下の1996年、新たな制裁を課した。「ヘルメス・バートン法」である。全ての第三国企業がかつての米企業資産と思しき物件への投資まで制裁対象とする、域外適用(国際法違反)として悪名高い。大統領選挙のこの年、民間機をキューバ軍が撃墜したことがここまで駆り立てた。クリントンは再選された。外国企業のキューバ投資にブレーキが掛かった。98年になると、ローマ法王がキューバを訪問、カストロを師と仰ぐベネズエラのチャベスが大統領になったことも手伝い、個々には色々あるが、全体としてラ米諸国のキューバを見る目が温かさを増す。国連で毎年、アメリカによるキューバ制裁解除を求める決議が出されていた。クリントン政権は、水面下では食糧及び医薬品の対キューバ輸出解禁など、一定の制裁緩和を進めてもいた。ひょっとしたら撤廃まで進むのでは、と期待したものだ。ブッシュ二世が米大統領になった。食糧と医薬品の輸出は実現をみた。しかし9.11事件後、対キューバ関係改善には冷淡であり続けた。

この中で、キューバは生き残っている。ラ米、特にベネズエラとの経済関係を深め、中国とロシアも関係強化に当たってきたことも大きい。観光客は増加の一途で、且つ制限は加えられても在米キューバ人の送金は続き、貿易収支こそ大幅赤字の中で、サービス及び移転収支の大幅黒字で、国際収支は何とか回ってきた。

半世紀もの間アメリカの制裁を受けながら生き残ったことの証として、革命五十周年式典には晴れがましささえあったことだろう。他国、特に同盟国から国家元首クラスが出席できなかった理由をあれこれ推測しても仕方がない。公式にはアメリカの対キューバ関係改善には、キューバの反政府活動家(政治犯)の釈放が最低限必要、としている。ブッシュ政権下では、カストロ兄弟の退陣と自由民主主義国家への移行まで求めていた。オバマ次期大統領は、政治犯問題で時間空費はすべきでない、と言い、ラウルは首脳会談を受ける旨を表明している。今後の短期的な動きを注視していきたい。

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2009年1月 9日 (金)

2009年のラテンアメリカ選挙

2008年、ラ米十九ヵ国(イベロアメリカ。旧スペイン・ポルトガル植民地諸国)の内、4ヵ国で政権交代(グァテマラ、キューバ及びパラグアイ)、及び連続再選(ドミニカ共和国)があり、私のホームページにあるラ米の政権地図http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI3.htmに述べる現在の政権が揃った。2009年にはエクアドル(2月)、エルサルバドル(3月)及びパナマ(5月)の3ヵ国で大統領選が行われる。加えて、ボリビアでは1月下旬、憲法改正のための国民投票もある。またベネズエラでもチャベス大統領が2008年末、大統領の無制限再選を認めた憲法改定案を20092月に再び国民投票にかけたい、との強い意向を示した。

面積でラ米最小国のエルサルバドル。中米六ヵ国で唯一大西洋への出口を持たない。人種構成上、白人と先住民との混血、メスティソが9割を占める(CIAデータ)。197080年代の内戦時代、多くの国民が難民となり、以後アメリカに住み着いた同胞とその家族は200万人を超える、といわれる。コーヒーとアメリカ向けを中心とする加工業、加えて在米同胞からの送金を経済の基盤とする。2001年から通貨も米㌦になった。1989年以降、国民共和同盟(ARENA)という右派政党が政権を担ってきた。次の94年選挙からは野党第一党で左派のファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)が推す候補との事実上の一騎打ちで、ARENAが勝利するパターンで推移してきている。ARENAは、81年にタカ派で知られる元軍人が創設した。その当時、FMLNが反政府左翼ゲリラとして活動していた。内戦時代が終結し、FMLNが武器を捨て合法政党となってから、この左右両陣営が選挙で激突するようになった。与野党の候補者は;

l       ARENA:ロドリゴ・アビラ(44歳)。国家警察長官出身

l       FMLN:マルリシオ・フネス(49歳)。ジャーナリスト出身

アビラ氏が歴代のARENA政権下で若くして国家警察の要職を担ってきたのに対し、野党候補のフネス氏は党員活動が無く、ゲリラ出身でもない。最近の世論調査によれば、初めての与野党交代が現実味を帯びている。

人口ではラ米最小、面積ではエルサルバドル、コスタリカに次いで三番目に小さい国、パナマ。運河と自由港、及びオフショア金融が特徴で、サービス部門のGDPに占める比率は77%にもなる。人種的にはメスティソが7割、また黒人系混血が多い(いずれもCIA資料による)。1930年にクーデターを起こした文民政治家アルヌルフォ・アリアス、それから38年も後に軍事クーデターを起こした軍人のオマル・トリホスという二人の指導者が、今日の二大政党、パナメニスタ党(アルヌルフィスタ党)と民主革命党(PRD)の基を築いた。この国の事実上の民主化達成は、ノリエガ将軍による政治支配が8912月の米軍侵攻によって終った90年1月初め、と言えるが、以後両党が5年ごとに政権交代を繰り返している。二人ともナショナリズムを奉じるが、77年に対米運河返還条約に漕ぎ着けたトリホス将軍の方が目立つようだ。今年選挙ではパナメニスタ党も候補を出すものの、今のところ;

l       PRD:バルビナ・エレラ(55歳)。前住宅相。現党首

l       民主改革党(CD):リカルド・マルティネリ(56歳)。党首。元運河局議長

の二候補の一騎打ちになろうとしている。

ベネズエラと並んでOPECメンバーの一角を占めるエクアドル。大西洋に出口無く、通貨が米㌦と言う点でエルサルバドルと似る。人口の4分の1が先住民、3分の2がメスティソ(CIA資料による)で、経済的には石油に加えバナナと水産物の輸出が有名だ。1980年代の債務危機を経て政治が不安定化した。特に96年以降僅か10年半で、現コレア大統領は、暫定、臨時を含めると、第7代目として就任した。昨年9月、新憲法草案の賛否を問う国民投票が実施され、63%の賛成を得た。同国でもラ米で一般的な大統領連続再任禁止を憲法でうたってきたが、これを解禁する条項が盛り込まれている。本年2月に、早速新憲法下での総選挙に臨むことになる。1999年にベネズエラのチャベスが、また92年にペルーのフジモリが採った道である。コレアの与党「国民同盟」(PAIS)は事実上国会を代行している制憲議会130議席中80議席を占める。総選挙で、国会議席が決まる。コレアが大統領に選任され、PAISが彼の安定基盤で有り続けられるかどうか、注目したい。

選挙ではないが注目すべき国民投票が本年1月に行われる。ボリビアの、やはり大統領の連続再選禁止を解禁する憲法草案の賛否を問うものだ。今やベネズエラのチャベスの盟友として反米言動が目立ち、またキューバのフィデル・カストロへの尊敬を隠さないモラレス大統領自身が創設したのが「社会主義運動(MAS)」。政治思想を前面に出し、二度目の大統領選で当選した。国内の、特に基幹輸出産品の天然ガス生産地を押さえる地方の反モラレス行動を抱え、幾度の政治危機を乗り切った彼にとって、重大な政治イベントとなる。

ところで、一昨年12月、ベネズエラでは大統領の連続再選回数の制限を撤廃する憲法改正の国民投票が行われたが、この時は否決された。果たして本年2月に再度国民投票にかけることになるのだろうか。

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2009年1月 8日 (木)

世界同時不況と中南米

20078月に突然クローズアップされたアメリカのサブプライムローン問題。以後、金融機関が計上してきた損失額の巨大さに瞠目するばかりだった。1年間でついにはリーマンブラザーズが経営破綻に陥った。実体経済の悪化を予測し下落してきた企業株価は下げ足を速め、金融システム保護のための財政出動、利下げ、基幹産業である自動車への政府の巨額資金支援、と、市場主義経済を奉じるブッシュ政権すら動かざるを得なくなった。それでも失業者が短期間で急増し、国民購買力が急速に減退している。問題はこれがアメリカから世界に波及していることだ。先進国は軒並み不況に陥り株価も暴落している。先進国向け輸出で経済を牽引する新興国はさらに厳しい。伝統的輸出産品である食糧、金属エネルギー価格が暴落しただけではない。先進国向け製造品の需要は急減した。先進国からの証券投資が引揚げ、同じく株価暴落を呼んだ。アメリカ向け輸出に頼る中南米諸国も同様だろう。

百年に一度の経済危機、という。192910月のウォール街発世界恐慌が念頭にある表現だ。29年と比較したアメリカの33年のGDPは三割下落、32年の世界貿易は、数量で四分の三に落ち、34年には金額で実に三分の一にまで激減した、という(いずれも「世界の歴史」26巻。中央公論新書、1997)。

今回の世界同時不況がここまで行くとは思えないが、この機会に当時のラ米を振り返ってみたい。Modern Latin AmericaOxford University Press,2001)によれば、1930-34年のラテンアメリカの輸出高は25-29年に比べ48%だった。世界恐慌期の中南米では、3031年の2年間で、旧スペイン・ポルトガル植民地(イベロアメリカ。以下通称の上記ラテンアメリカで表記。時にラ米とつづめる)十九ヵ国の内、8ヵ国で軍事クーデターが起きた。他11ヵ国の内、チリでは時の大統領が政権を放棄し亡命した。32年にはボリビアとパラグアイが3年間に亘る「チャコ戦争」を起こした。33年にはキューバでもクーデターが起きる。何より曲がりなりにも民主主義体制を採っていたラ米諸国で、軍部が政治影響力を示し始め、それを背後とした個人長期政権が中米カリブ諸国に続出した。メキシコ、コスタリカ、コロンビア、チリ及びウルグアイを除くそれ以外でも、軍部の台頭は顕著だった。日本も軍国主義に向かい、ドイツではナチ支配が、イタリアではファシズムが台頭する時代にも当たる。第二次世界大戦にまで進んだのはご存知の通りだ。だが賢明にもラ米諸国は連合軍側に付き、しかもブラジルとメキシコを除く17ヵ国は、参戦すらしなかった。

世界恐慌から80年。今、軍部が政治影響力を持つ国は見られない。反政府勢力によって政権を追放される政変は有り得ようが、60年代からの軍政時代を経験したラ米諸国で、軍事クーデターは、ちょっと考えられない。キューバとベネズエラを除くと個人長期政権が可能な国は無い。色々な見方もあろうが、私はラ米の殆どの国で民主主義が根付いた、と思っている。

世界恐慌期のラ米は基本的に、先進国に食糧、金属資源を輸出し、工業製品を輸入する貿易構造にあった。交易条件が圧倒的に不利である、との考え方も強まった。工業製品の自国生産切り替えを図る、いわゆる輸入代替産業振興(従って保護主義政策が必然となる)が声高に叫ばれるようになり、特にブラジルやメキシコのような主要国で政策に移された。今や殆どの国で、GDPに占める第二次産業のシェアが第一次産業を上回る。メキシコや中米・カリブ諸国では工業製品の大半がアメリカに輸出される。だからこそ、アメリカの購買力減退がもたらすダメージの大きさが心配だ。

工業国となったブラジルやアルゼンチンは、製品をラ米諸国向け、取り分けメルコスル域内諸国に輸出し、欧米には鉄鋼原料や食糧を輸出する。最近では中国が大豆や鉄鉱石の大口買い手として台頭してきている。それでも金属などの工業原料は全世界的に需要減にも見舞われ、しかも価格はこの1年間で大きく下落した。これはチリやペルーの非鉄金属についても言える。穀物、食肉、コーヒー、砂糖、需要減の度合いは工業原料に比べて軽微でも、国際価格の下落ぶりは同じだ。アメリカ向けが大きいコロンビアやエクアドルでも同様である。

世界有数の産油国ベネズエラは、チャベス大統領の勇ましい反米姿勢と対ロ協調、及び独自の社会主義レトリックで間違えやすいが、石油輸出の大半はアメリカに向けられる。これもこの数ヶ月で三分の一にまで急落した原油価格とアメリカの需要減で、輸出が激減する方向にある。石油輸出国としては、メキシコやエクアドルも同様だ。

先進国の金融機関や投資ファンドによる国境を越え自由に動き回る投機的な資金の動きも恐ろしい。日本でも証券市場でも現在進行中だ。何か懸念があると、中身を精査したのか疑わしいが一気に資金を引揚げる。1994年のメキシコ、98年のブラジル、あるいは97年の東南アジアで、そのダメージの凄まじさをみてきた。今回もラ米から引揚げる資金量がどれほどになるか、背筋の寒さを覚える。何しろ、輸出高が激減する。これを唯一の根拠に、もともと資金繰りに行き詰っている連中は、ラ米の証券市場からの資金引き揚げを躊躇すまい。

どれを見ても、ラ米も近年に無い不況に陥ると思うしかない。予想される社会不安は、だが、80年前の世界恐慌期のように軍部の強権によって抑えられることはあるまい。繰り返すが、ラ米は民主主義を達成した地域である。欧米、或いは日本同様、きちんとした景気対策が打ち出され、或いはそれができない政権はやはり民主的に他の政権へと交代する形で進んでいくだろう。皮相なカントリーリスク論議に惑わされないことが肝腎だと思う。

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